第二章
第26話 穏やかなヴォフル
「奴隷持ちで冒険者登録とは、また贅沢な御身分だな、坊ちゃん?」
「何者ですか!」
ティリスの鋭い質問が飛ぶ。
声には今までのおどおどとした態度からは想像もつかないほど、強い意志が感じられた。
怒りというか、触れたら即座に切り殺す、といった感じの殺気にも近い何かだ。
それを聞いて男たちは一様に怯むも、こちらには女と子供だけ。
そう再確認すると、一瞬で態度は元に戻った。
「奴隷に用ねえんだよ。なあ、坊ちゃん。俺たちはお前の御主人様に用があるのさ」
薄気味悪い猫なで声が、俺の首筋を撫でて行った。
じわり、と男たちは俺たちを囲むその輪を縮めていく。しかし、あるところまでくると、それ以上は寄ってこなかった。
ティリスが「衛兵!」と叫んだからだ。さっきまでいた総合ギルドの門番のあの二人に向かい助けを求めていた。
こちらの声に気づいたあの二人。だけど、そこから動けないらしく、一人が奥へと消えていく。誰かを呼びに行ったのかもしれない。
そこまで目の当たりにしてなお、男たちはどこにも引こうとはしなかった。
「あいつらは門の番で忙しいと、さ。なあ、坊ちゃん。俺たちと仲良くお話しないか」
じわり、と最初の男が歩み出る。
灰色の髪をだらしなく伸ばし、髭は染めているのだろう、口元が黒く覆われている。
どこかで見覚えのある風情だと思ったら、王都でよく見かけた野生の猿そっくりだった。
「ぷっ……」
「んだ、てめっ! 何を嗤いやがる!」
定期馬車の停留所は歩道と馬車が走る車道の合間に打ち込まれたニメートルほどの丸太に、時刻表が掲げられている。二車線ある街道に沿って走る左右の歩道に決まった感覚で置かれていて、その前には数人の利用者が列をなして待っている。
この時、俺とティリス以外に待ち人はおらず、てっきり後ろに並ぶのかと思ったら、周りを囲まれた。
そんな間抜けな話になっていた。
「御主人様、お下がりください」
ティリスは丸太を背後にして、俺をその後ろに庇う。
彼女の背中に護られた俺はまだ幼かった。その脇から見える光景がすべてだった。見える範囲で数えたら、男たちは四人。
それぞれが粗末な革の胴衣で身を守り、腰には短剣を履いていて、一様によく理解できない紋様のようなものを派手に染め抜いたズボンとシャツに身を包んでいた。
「……趣味悪」
「あんだと? 性懲りもなくこのクソガキが!」
しまった、咄嗟に思ったことが……。最初にこちらに向けて歩み出た男がいらついた素振りと共に、鋭い眼光で睨みつけて来た。
まあ、無理もない。自分たちで趣味が悪いと思うような服装はしないだろうから。あれがこの土地の流行、というやつかもしれなかった。残念ながら、俺の美的感覚には反応しない品々だから、正直に感想を述べてしまった。
「御主人様に触れるでない!」
俺を引きずり出そうと伸びてきた無骨なその手は、しかし、気丈な侍女の一閃によって簡単にあしらわれていた。
野猿に近いそいつは、ティリスに手首を掴まれると、勢いよく地面に伏してしまったからだ。
「ぐひゃっ」
と、豚があげるような悲鳴が辺りに響く。
べったりと蛙のようになって地面にくっついたそいつの腕だけが上に伸びて、その尖端を侍女が掴んでいた。
すげえ……本物の、格闘だ。目に見えなかったぞ、戻ったら絶対に教えてもらおう、この技を。俺が密やかに興奮するなかで、他の三人が叫ぶ。「兄貴」、「なんだこの侍女は!」、「てめえ、俺たちを誰だと!」そんな使い古されたセリフをティリスは聞き流して、足元に這いつくばる男の背中を片足で踏みつけた。
「げえっ」
と、再び悲鳴。今度は蛙が潰れた時のような声だった。底の高いヒールを履いたティリスが、その片足に体重を載せたら……そりゃ、痛みは一点に集中するだろうな。痛さも倍増するというものだ。俺はそいつが何だか哀れになって可哀想な大人をじっと見下ろしていた。
「……誰と、お話をしますか?」
「お、お前とじゃねえ! お前の、御主人……様、だ」
「フンっ。野盗のような真似事をする割には、まともな口が利けること」
ティリスは冷酷に言い放つ。後ろから垣間見えた彼女の視線は、凍りのような冷たさを放って見えた。
ぐりぐりと、踵に体重をかけて男を踏みなじる。どうにかそれから逃れようともがく野猿みたいなそいつは、本物の猿みたいに顔を真っ赤にして「まて、助けてくれ! 違うんだ、話を!」
と悲鳴を上げる。
他の三人は彼を助けようとするも、ティリスが放つ気迫に気圧されたのか、まったく近寄れないでいた。
「話? お前たちのような輩が、御主人様と言葉を交わすことこそ、汚らわしい。この方がどなたか知ってこんなことをしたのなら、死罪も軽いほどだわ」
ティリスは追い打ちをかけるように、更に冷たく言い放つ。
それは踏みつけられている男にとって、死刑宣告にも等しい言葉だった。
あの置いている踵の位置をちょっとだけ踏み変え、そこに適した角度で全体重を乗せて一撃を加えたなら……見た目はひ弱なティリスであっても、首をへし折ることくらいは容易い。
俺は兄上たちに訓練と称して、散々、痛めつけられてきたからそれくらいのことは想像できた。
男もまた、未来の自分を予測したのだろう。死の予感をまとわりつかせながら、じりじりと背中の足が、自分の背中へと、そこから首の方向へと歩み寄っていることに気づいたはずだ。
見下ろす俺の視界でその顔は赤から青へと変わり、だらだらといやな汗でまみれて目を見開いていた。
「待て、待て、待って! 頼む、お願いします、待って……」
「もがいて、死ね」
男はもがく。死にたくないと。ティリスは押した。ゆっくりと、体重を掛けながら、まるで柔らかな卵の殻に圧力をかけてごりごりと砕くようにして。
「あああああっ」
「おい、やめろ! もういい!」
犠牲者が終わりの悲鳴を上げようとする。それを止めたのは、門番では……ない。
その場を動けず、仲間の死をただ見取るしかできなかった三人と同じ格好をした、もう一人の新しい男だった。
「ヴォフルの兄ィ」
「兄貴!」
口々に三下たちが叫ぶ。なるほど、こいつの名前はヴォフル、ね。
訊きもしないのに教えてくれるなんて、本当、便利なやつらだった。
いかつい顔つきのそいつは、短く刈り上げた金髪に精悍な青い瞳をしている。
悪党のはずなのに、その目にはなぜか悪意が感じられないのが不気味な奴だった。
彼は俺が気づかないうちに、そこにいた。腰から短剣を抜き、ティリスの左肩にそっとそれを載せるようにして置いている。柄には手が添えられていて、いつでも彼女の首を掻けるような位置で、彼は立っていた。
「おい、御主人様。メイドを引かせた方が賢明だと思わないか」
「……いけません。御主人様っ」
ティリスはヴォフルから目を離さずにそう言った。しかし、あちらからは見えないその首筋にうっすらと汗が浮いているのを俺は見つけてしまう。
さっきまで余裕があった表情にもどことなく焦りが立っていた。
「放していいよ、ティリス」
「はい……」
弱気な返事とは裏腹に、ティリスは踏みつけていたその体勢からどうやったものか、足者のそれを持っている腕を支点にして高々と蹴り上げる。
その反動で剣をこちらに向けていたヴォフルから素早く身を避けていた。
蹴り出された雑魚は持ち上げられた勢いそのままに、ヴォフルに向かって飛んでいく。
「邪魔だロッサム、このボケ!」
「ぐへっ!」
ロッサムというのか、あの雑魚。
可哀想なロッサム君は、うちのメイドに蹴られ、兄貴分のヴォフルに蹴られ、待っている三人の仲間に受け止められて、ようやく落ち着いたようだった。
仲間なのに、容赦ないな、このおっさん。
俺は相変わらずティリスの後ろに立ったまま、そこまでをじっと見届ける。侍女の服は激しい運動に耐えられなかったのか、ところどころが裂けてしまっていた。
腰の位置から下に走る一本の線。
それは蹴り上げた時に、あのヴォフルに付けられたものだと、ようやく俺は理解した。
あの合間で反撃することがどれほどの技量を要するのか。形のいい太ももを露わにしたまま、ティリスは肩で小刻みに息を吐いて呼吸尾を整えている。噴き出した汗で全身に生地が張りついて、彼女の余裕の無さを物語っている。
「おい、そこの御主人様。侍女を殺したくなかったら出てこいよ、話がある」
ヴォフルにそう言われ、俺もそろそろ潮時だと感じたから、ティリスの腰に手をやって、そっと横に押し避けた。
「坊ちゃん! 駄目です!」
「いいから。その足を仕舞って」
「……っ!」
俺がそう言うと、指摘されて初めて彼女は自分の現状を認識したようで、真っ赤になってスカートを上から手で押さえた。それだけでなく、豊かな胸元も薄っすらと白い下着が見えている。メイド服が黒い生地だからか、それらは艶めかしく辺りに集まった人たちの目をにぎわせていた。
「いきなり無作法な挨拶とこんなやり方をされて、黙っていろって?」
俺はやつらの無法に従う気はなかった。とはいえ、実力でヴォフルに敵うはずもないし、そんな気の一つも生まれない。
しかし、ここで下手にでるのも、賢いとは思えなかった。
十二歳なりに、この降ってわいたトラブルから生きて次を続けるために、俺の脳みそは生まれて初めて最大級の活動を開始していた。
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