第21話 名前の意味
受付のお姉さん、猫耳族と呼ばれている種族の彼女は、俺に「はい、ここに親指の腹を押してくださいね」と魔石板とやらを俺に向けてくる。
対面越し、カウンターを挟んでの会話だというのに、嫌に聞き取りづらいなと思いながら、そこに手をやると、俺の手は魔石板の上でなにかに弾かれたように、押し返された。
「へ?」
「あー……初めてだから分からないわね、ごめんなさい。ここね、見えないけど魔法の壁があるのよ。ほら、押したらぽんって跳ね返るでしょ?」
そう言うと、お姉さんは自分の手を透明な分厚い弾力性のあるそこに押し当てて実演して見せる。なるほど、これなら少々、粗雑な奴が乱暴を働いても、貫通させるのは難しそうだ。
手に平には肉球がないのか、と彼女の手をまじまじと見つめながら、俺は「へえ」と頷いた。
「ここ、なかなかに危ない役職だったりするのよ。変な男も言い寄ってきたりするしねー‥‥‥だから、酒場なんて併設しなきゃよかったのに」
ギルマスのぼけっ、と俺には聞こえないと思ったのか、お姉さんはなかなかに毒舌を披露してくれた。
ティリスとともに聞こえないふりをしつつ、作り笑いをしてやり過ごす。
下の三十センチほどの空間が開いているだけで、書類や魔石板はそこから出し入れするようだった。
「あーごめんごめん。そうじゃなくて、あとここに、サインを」
と、木製のペンを渡された。
魔石板の表面は脆いのだそうだ。
何かの樹脂で柔らかいペン先を作られたそれを使い、自分の名前を記入する。
イニス・アルベド・レイドール。
それが俺に与えられた本来の名。
「あと、ここに彼女の名前を書いて下さいな」
「えっと、おい?」
お前が記入しろと俺は後ろに控えるティリスに魔石板を預けようとした。
振り返ると、侍女はぴんっと背筋を伸ばして立ち、前で揃えた両手に携えるバッグを除けば凛としたたたずまいを見せていた。
周囲を行き交う男の冒険者たちが彼女を見ていることに、俺は初めて気づいてしまう。
それほどに、ティリスはこんな田舎では珍しいほど美しい美少女だった。
その首に巻かれた首輪が無ければ、誰もが近寄り、声を掛けてくるに違いない。
そうしないのは、彼女が明らかに堕とされた身分の存在。
奴隷だと分かっているからだ。
「あ、いえ‥‥‥その、それは」
「あー、彼女じゃだめよ」
「え? そうなの?」
驚いて前を向くとき、なんだかティリスがうなだれてしまったように見えたから、後からフォローしておこう。
「そうそう。奴隷にはサインとかする権利が与えられていないの」
「へえ‥‥‥ティリス?」
「あ、はい。ティリス・リンゼイ‥‥‥」
「あら、長いお名前ね」
受付嬢は特に嫌味を込めるでもなく、自然とそう言った。
しかし、ティリスにとっては元貴族だという過去があることを他人に知られるのは嬉しくないらしい。だけど、聞かないと最後まで記入できないし。
「……エダーリーン、で、ございます。御主人様‥‥‥」
喉の奥から一滴の水を吐き出すようにティリスはようやく家名を言い終えた。主人である俺に恥をかかせてしまったと頭を下げて謝罪してくる。
いや、俺は何にも感じていないんだけどね、本当に。
俺がティリスの名前を記入し、その下に彼女の指の腹を押し当てて、それで契約完了、ということらしい。つくづく人間扱いしてやれないことに、この世の理不尽さを感じる。
「申し訳ございません」
そう謝罪するティリスに、俺は別にいいよ、と首を軽く横に振る。
その表情がすこしだけ明るくなったのを見て、こちらは何か後ろめたい物を感じる。嫌な気分を味わうここからさっさと抜け出したくなった。
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