乙女と百式眼鏡
静江は美幸と同じ女学校に通うようになり、彼女の体が自由がきかないことを思い知らされた。月の始めに熱を出し、数日休む。やっと学校に来たかと思えば、月の終わりには咳が止まらないとまた数日。早退も多く、続けて登校した試しがない。
静江が授業内容や連絡事項を伝えるために梅辻邸に訪れるのも十日に一度の頻度だ。一族の資質から丈夫な体を持つ静江は気後れや面倒と思うこともなく、むしろ進んで美幸のところに訪れていた。
静江は一度だけ練習と称して、自身の異能で彼女の様態を診たことがある。健やかな様子からは想像もできないような苦痛が体のあらゆる所でのたうち回り、指がしびれた。震えの止まらない手を見下ろし、穏やかな笑みを見返す。
目の色を変えた静江に対して、美幸は困ったように笑った。凪いだ瞳には諦めがにじんでいる。
平気なの。静江の短い問いは許すように肯定された。
それからだ、静江が美幸のために動くようになったのは。体を丈夫にしてやることはできないけれど、助けられることは助けようと。相手を思いやるという高尚なものではない。自己満足に付き合わせているとも言えた。
困り顔をされるので過ぎた行動は控えているが、学校の様子を伝えるのは造作もないことだ。何より美幸と過ごす時間はおだやかで心地いい。
「おや。今日も勉強会ですか」
かけられた声にその場で飛び上がりそうになった静江は強張らせるだけでとどめた体をゆっくりと返した。
初夏といえど今年は肌寒い日々が続く。茶羽織姿の裕臣は組んでいた腕をといて微笑んだ。
お邪魔しております、と静江が頭を下げれば、穏やかな笑みが返される。
「いやいや、邪魔なんてそんな。むしろ助かっています。美幸はあまり学校に行けないので、ついていけるか心配していましたから」
静江さんのおかげで美幸は毎日楽しそうです。そうにこやかに続ける裕臣を静江は直視できなかった。でも、少しでも見たくて、ゆるやかな口角だけを視界に入れる。早足の心臓をなだめて、顔に熱が集まるなと念じた。
静江の心など露知らずといった様子で裕臣は続ける。
「後でお邪魔してもいいでしょうか。見せたいものがあります」
「美幸さんにも伝えておきます」
声の調子が外れないように答えた静江は頭を下げて、踵を返した。廊下の角を曲がり、動きを止める。誰もいないことを確認して両手に顔を伏せた。
「言葉が固かったわ……」
くぐもった声をもらして自省した静江は次に会ったらもっと上手く話そうと顔を上げた。また、だなんて、おこがましいということに気付き、顔を隠した。微動だにせずに自分を戒め、本来の目的を思い出して美幸の部屋に急ぐ。
静江が障子に声をかけるとすぐに返事があった。遠慮することなく開け、椅子にゆったりと腰かけた美幸が出迎えてくれる。今日は寝込むほどではないらしい。
開いた窓からは気持ちのいい風が吹き込んでいる。
「いらっしゃい、静江さん」
「回復したようで何よりね」
くすぐったそうに笑った美幸は膝に置いた本を机に置きなおし、正面の椅子に座るよう手で促した。
「顔が赤いわ。お加減が悪いの? それとも、お兄様に会った?」
心配そうに眉を下げているが、美幸の瞳は悪戯めいている。
静江は口を結び、友人を睨み付ける。落ち着いてはいるが、頬は赤いままで迫力はない。幼子のように口をわずかに尖らして聞き取りづらい言葉を落とす。
「その、嫌じゃなくて? 友人が身内に好意を寄せるなんて」
「わたくしは、大好きな静江さんと大好きなお兄様が仲良くしてくれるなんて、嬉しい以外のなにものでもないわ」
兄と似た穏やかな顔でこうも言われてしまえば、静江はぐぅと黙りこむしかない。
静江が家族に何か報告すれば、そうか、ご苦労など一言で片付く。薄情ではないが、淡白なのだ。両親に限らず、兄も姉も感情を露にすることが少なく、苦手といった方が正しいのかもしれない。
だから、裕臣や美幸のように気持ちを伝えることに馴れていないだけだと静江は自分に言い聞かせた。慣れないことに過剰に反応しているに決まっている。
「安心して、何があってもわたくしは静江さんの味方だから」
黙りこんだ静江にそよ風のような声がかけられた。
恨めしそうな顔が上がり、それを見てもなお訳知り顔は笑みを深める。
何だか居心地の悪い静江は話題を変えたくて、以前は部屋になかったものに目をつけた。
「金魚を飼い始めたの?」
「お土産にビードロ玉をいただいたから、蔵にあった金魚鉢に入れてみたの。そうしたら、お父様が気をきかせて金魚まで」
自分で世話もしないのに満足げなのよ、不思議でしょう。美幸はそう言いながら、子供のいたずらを許すように笑った。
でもね、と続ける言葉はさえぎられて部屋の外から声がかけられる。
「美幸、面白いものを手に入れたから見せたいのですが」
瞬く美幸に、静江は自分の失態に気付いた。会話に気をとられて裕臣が訪れることを伝え忘れている。
美幸は慌てる様子もなく、静江に目配せを送った。友人の申し訳なさそうな了承を得てから口を開く。
どうぞ、とかけた言葉に、やぁという気安い応えが返ってきた
二人は淑女らしい笑顔で裕臣を迎える。
「邪魔をしてすみません。これを見せたくて……少しだけ時間をくれますか」
そう言った裕臣は抱えていた風呂敷を円卓に置き、結びをほどいた。膝に置けるような大きさに施された装飾は緻密で繊細だ。
円盤の中央に立つ棒の先に天秤を傾けるような形で黒い筒がついている。筒の左右には
「覗いてみたらわかりますよ」
楽しそうな声に誘われ、裕臣と目がかち合った静江は慌てて美幸に視線を向けた。助け船を求めても、笑顔で先を促される。恐る恐る、瞳の大きさほどの穴を覗きこんだ。
傘を広げたように均等な模様は赤、黄、緑と極彩色が重なり幾何学模様を作り上げる。透かし見るビードロは現実では見られない異世界だ。取り込む光で輝きを増すそれは止まっているにも関わらず、ゆらゆらと揺れている。ビードロの中に色水でもいれているのだろうか。目が離せないほど美しい。
近くで裕臣が操作する雰囲気が感じられた。
心の臓が跳ね上がる心地を味わいながらも、静江は筒の中で広がる世界に集中する。
「めずらしい百式眼鏡でしょう。飾りのビードロにも液を含ませて、止まっていても美しい世界が楽しめます。動かしたら酔いそうなぐらいですよ」
耳に心地よい説明を聞きながら、ガラスで囲まれた世界から抜け出せない。七色の模様が回転すると共にゆっくりと変わっていく。
毬に刺したらさぞ美しいだろう模様が、雪の結晶や星の瞬きのような形に転じる
幾多にも形や色を変えて、尖りが広がり狭まり、同じ形は一つもない。
がしゃん、と体をすくめる音が響いた。
異世界から意識を戻した静江は百式眼鏡が壊れたのかと慌てた。さっと目の前のものを確認したが音の正体が見つからない。血の匂いに顔色を変えて向けると裕臣の腕から血がしたたり落ちていた。状況について行けずに固まり、呆然と傷を見つめる。
「いたずらをしては駄目だとあれほど言ったでしょう」
いつの間にか裕臣の抱えた猫が居心地悪そうに腕の中で身動ぎしていた。
濡れた床に、割れたガラスの隙間で跳ねる金魚。畳に敷かれた絨毯に丸いビードロが転がっている。
「お兄様、ミケはわたくしが預かりますわ。先に傷の手当てを」
ああ、と裕臣が答える前に静江は動いていた。肘から手に向かって出来た傷に向けて力を流す。
椿小路家には人の傷や病を癒す異能を受け継ぐ一族だ。正確には、相手に力を与え治りを促進させる。父にはもちろん、兄にも負けるが静江にもその力があった。
すぐに血は止まり、見た目よりも深くない傷に安堵した。もう少しだ、と静江は集中をする。
「やめてください」
固い声だった。
静江は一瞬、何を言われたのかわからず力はそのままに顔を上げる。裕臣の痛みに耐えるような険しい顔を見て、力を使うのをやめた。快く思っていないことを如実に語っている。
静江の心は謝りたいのに、肝心の口が仕事をしない。
はぁ、と大袈裟なため息が二人の間に割ってはいる。
「お兄様。それでは静江さんが勘違いなさいますわよ」
訝しむ兄は妹に無言で問い、返ってきたのは頷きだ。裕臣は様子をうかがうように静江に向きなおった。
「これぐらいの傷は平気なので、あなたの大事な力を使わないでほしいです」
難解な西洋書を前にした時よりも険しい顔だ。顔の中央による皺をごまかすのは丸い眼鏡だが、日照りの中の一滴と等しく効果がなかった。
でも、と言いよどむ静江の表情があまりにも切羽つまったものだったからだろうか。なかなか続かない言葉に夏のこぼれ陽のような笑みが返される。
「できれば、あなたを守れる人でありたいですから」
夕凪が頬を撫で、恋しい人がゆるやかに笑う。
口をついて出そうになった言葉を静江は抑えた。妹の友人から自分は抜け出せない。
心の中だけで、この笑顔を守りたいと
その翌年、願いが通じたのか、静江の婚約者は裕臣に決まった。
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