若妻と箱眼鏡
女学校を卒業した静江は、梅辻家に入り忙しい日々を過ごしていた。昼は診療所の手伝いを、それが終われば家事に追われる。女中が入っているとはいえ、すでに姑は他界していた。
美幸は季節が変わる以上に体調を崩し、心配する舅は嫁ぎ先を探すこともしない。
家の管理は買って出た静江に任された。執事を雇う金があるなら、医者を育てる方に心血をそそぐ、そういう一族だ。
気付いたら一年。気にしないように努めてさらに一年。裕臣と静江の間には子ができなかった。
「天からの恵まれものだから」
と少し寂しそうに笑う裕臣に静江は涙を堪えて同じ顔を作った。
考えても詮無いことと自分を戒め、静江は仕事に没頭した。裕臣について診療に赴き、住み込みの弟子たちの世話まで手をつけ始める。
心配する裕臣や美幸には、体を動かしている間は何も考えなくて済むと卑怯な言い訳をした。目元にできた色濃い隈を見咎めた夫が影でため息をつくことも知りもせずに。
月のない夜、裕臣は静江を手招きした。
「静江さん、休みしましょう」
許嫁になる前も、契りを結んだ後も、夫からの呼び方は変わらなかった。
裕臣様から旦那様に言い換えた静江はそんな些細なことも気になって仕様がない。自分でも余裕がないと気付いていたが、気持ちを押さえることは難しかった。
静江を甘やかすように、あたたかい手が頭をひと撫でし、すがめられた目元を隠す。
静江が気付くのは一足遅かった。抵抗する間もなく、瞼が落ちてくる。
「眠りは薬にも毒にもなりますから」
最後に落ちた裕臣の声は子供に言い聞かせるように穏やかだった。
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翌朝、いつになく静江の体は軽かった。理由はわかりきっている。
裕臣が異能を使い、深い眠りに落とされたからだ。いつもなら日も上がらぬ内に目を覚ますのに、今日はすでにさんさんと降り注いでいた。
丁寧に畳まれた隣の布団はもぬけの殻だ。
我慢強い静江が穏やかな裕臣に声を荒たてることはほとんどない。しかし、今日ばかりは加減ができなかった。
「勝手をしないでください」
言葉の端から、雰囲気から苛立ちを見せる。
冬に降りそそぐ束の間の日差しのように笑う裕臣は揺るぎない態度で返す。
「今にも倒れそうな人を放っておけるわけないでしょう」
「わたくしは倒れません」
強い言い返しに裕臣の眉間にしわがよる。
「後生ですから、無理はしないでください」
「……無理をしないとやっていられません」
「誰も責めていないのに。あなたは自分に厳しすぎます」
「旦那様はわたくしに甘すぎます」
やんわりとした諭しにも、低い声は改められなかった。
「甘くしてはいけませんか」
裕臣の笑顔と言葉に静江は押し黙る。
心配されるのは嬉しい。嬉しいが、そうじゃないのだ、ちゃんと言えない。きっと、気持ちに折り合いをつけて、頼った方がずっと楽になる。わかってはいるがそこに飛び込むのは、頑固で意地っ張りな静江の虚辞が許さなかった。
「昨晩のようなことをされるなら、寝室を別々にさせていただきます」
「構いませんよ。勝手に寝かしつけて運びますから」
妻の売り言葉に夫は怯まなかった。はくはくと言葉を失い、口をわななかせる姿を見て、瞳に面白がる色さえ見せる。
「初めてですね、静江さんが我が儘を言うのは」
「わ、我が儘ではありません!」
「あまり願い事も言いませんし」
「贅沢するつもりがないだけです!」
言い返しに裕臣が首を振る。
まるで幼子に呆れる様に見えた静江はさらに頭に血がのぼるのを感じた。
「先生、応診の依頼が来ています」
鬼気迫る顔に、裕臣も顔色を変えた。表面は穏やかさを被っているが、声がするどくなる。
「症状は?」
「腹痛、嘔吐下痢です」
眼鏡の奥にある目がわずかに細められる。
「……ご職業は?」
「船乗りです。他の診療所からは断られたらしく、うちに来ました」
「接触はしてませんね? すぐに消毒を。門の前にも石灰を撒いておいてください。用意ができたら向かいましょう」
裕臣の指示に助手は小さく頷いた後、すぐさま指示されたことに取りかかる。
裕臣と静江はしばし見つめあい、互いの判断をうかがった。恐らく間違いないと確信した静江は口を開く。
「
「ただの風邪などであれば幸いなのですが……静江さんは来ては行けませんよ」
夫の咎めに妻は目を見開いた。
「わたくしだって、お役に立てます」
「本調子ではないでしょう。最悪、虎列刺になります」
「それを言うなら、旦那様も同じことです」
「あなたが元気なら、私も止めません。頼りになる弟子もいることですし、静江さんは普段の患者の相手をお願いします」
いつもなら引き下がる静江だが、腹の虫が収まっていない今は素直に従うことができない。無言で応診の準備を始めた妻の耳が小さなため息を拾った。
作業する音が大きくなったことは言うまでもない。
診療所はひっくり返したように忙しくなった。多数の
静江は怒鳴り付けたくなるのを必死に耐えていた。呪いであれば、自分の力が効くはずない。歯がゆい気持ちをぶつけている場合ではないと、煮沸する布を無駄に睨み付けた。
「どうしましたか、そんなに赤い顔をして」
静江は声をした方へ顔を向けた。
白い医服から
目尻を下げる横顔に静江は胸が締め付けられた。叶えられない願いが腹の底で足掻いている。
美幸を離れに移動させ、面倒を見れない患者の子供は梅辻邸に集められていた。面倒を見ることができる子に赤子や身の回りの世話を任せる。
少しでも不調を示すものは静江の異能で体の力を高めてやり、発病しないよう処置した。
流行り病の抑え込みに静江の実家も乗り出していたが、一向に終着の兆しはない。一週間、二週間と過ぎても状況は好転せず、一つの長屋が落ち着いたら、新たな長屋からといった調子だ。見えない病は何処に潜むかわからない。
静江も子を失った親を幾度も見た。子を産めない自分はそれさえできない。死と己の境遇を比べてしまい、絡み付き蝕まれた奥底に目を背けようとも墨が染みるように迫ってくる。心ばかり守ろうとする己はどれほど罪深いのだろうか。
夫の顔が上がる気配を感じた静江は竈から鍋を移し、流しのざるへ湯を捨てた。
もうもうと上がる湯気で何も見えなくなる。
「静江さん」
「結構です」
背中にかけられた声をはねのけるように言葉がついて出た。
静江は我に返ったが、言ってしまったものを消すことはできない。
「すみません、干してきます」
口早に言い、裕臣の顔も見ずにかごを抱えた。何に謝ってるのかも理解できず、水が滴るのを気にも止められず、頬の赤い子供の頭を撫で先を急ぐ。
「ちゃんと休んでくださいね」
夫の声が追いかけてくるが、振り向く余裕など妻にはなかった。
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子供達が庭の池で歓声を上げていた。箱眼鏡を使って水の中を探索しているようだ。猫が遊ぶので何も放していない池では、見るものもないだろうと静江は考えてしまう。
「静江さん、顔が真っ青よ」
離れの縁側から眺めていた静江は美幸を見上げた。
「ちゃんと寝ているのだけど」
「働きすぎなのよ」
美幸の言う通りかもしれない。いくら寝ても、体の怠さは取れず頭は割り切らない。こんを詰めすぎている自覚はあるが、力を抜くことが容易にできない静江は諦めをにじませながら嘆息する。
「……働きたいのよ」
兄と似た穏やかな目を細めた美幸は静江の横に腰を下ろした。
「ねぇ、失礼なことを訊いてもいいかしら」
静江は続きを待つ。隣に座る友人は迷う素振りを見せたが、怯むことはなかった。
「そんなに子供が欲しいと思うものなの」
見開いた目に凪いだ瞳が映る。
静江は美幸に子ができないことをただの一度も相談したことはなかった。未婚の友人に相談はできないと思っていたし、同年代に打ち明ける悩みにしては重いと判断したからだ。
わかるわよ、それぐらいとやわらかく細められた瞳は慈愛に満ちている。奥にさみしそうな影と心配する色を見つけた静江は息をつまらせた。
俯く静江に美幸は仕方のなさそうに笑って口を開く。
「責任?」
親が決めたものであれば、跡継ぎを産むことは義務だ。異能の力を残さなければならない。
静江は小さく頭を振る。
「……強いて言うなら、愛しい人の証が欲しいって言った所かしら」
口には出さず、気遣うばかりのあの人を父親にしてあげたいとも思う。裕臣が言う通り、静江の我が儘だ。正直な気持ちを吐き出して、肩から力が抜けた気がした。誰にも言えずにいたことが重りになっていたのかもしれない。
わずかに顔を上げた静江の目に苦く笑う美幸が入る。
「……ごめんなさい。わたくしの理解をこえたわ」
「美幸さんはそういった話はないの」
「わたくしにそんな暇があるとお思い?」
真面目に訊いた静江に返ってきたのは、拗ねたように眉を下げた姿だ。思わずこぼれでた笑い声におされて頬をゆるませてしまう。
「一段落したら、何処かに出掛けましょう。新しい出会いを求めに」
「お兄様が泣くわ」
「美幸さんのに決まっているでしょう。わたくしは、裕臣様がいらっしゃれば十二分ですもの」
まぁ、と声を上げる美幸を目の端で確かめた静江は膝に手をついて勢いよく立った。いつもの目眩を感じ、一瞬遅れて視界が回る感覚に気が遠くなった。頭が叩かれたように痛む。体が熱いのに、汗をかいていない。不調を気付いたときにはもう遅かった。視界が傾いている。
手をのばす美幸に触るなと言いたいのに、掠れた声しか出ない。
「底ばかり見てたら、危ないよ」
遠くで聞こえた子供の声がやけにはっきりと聞こえた。
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