観音男爵 木の芽はる
かこ
令嬢と銀縁眼鏡
家の外に出れば必ずと言っていいほど、人と距離を置かれる。
そのことに
静江自身としてあつかってくれるのは家族とごく一部の人に限られていた。別段、不自由しているわけではないが、心の底では誰かに必要とされたいとも願ってしまう。
表に出さずにくすぶっていた静江は父と共に馬車に乗り、ある邸宅に向かっていた。怪我をした弟の代わりだ。
降り立ったのは、歴史ある木造建築に流行りの洋館を増築した屋敷。勝手しったる様子で父は迷うことなく歩を進め、静江はそれに習う。
若葉の先だけ紅く染めた
本日は父の旧友に会うと聞いていた。姓は
花族は子が生まれた時に一族の花を植える習慣がある。静江の屋敷を埋めつくしているのも椿だ。それなのに、梅辻邸には梅が見られない。
変わった家、と静江は心の中に呟いて敷居をまたぐ。
応接間に案内され、静江は当主な前に通された。梅辻卿は、毒の
親同士の簡単な挨拶が終わり、梅辻卿が名乗る。静江が続くと包み込むような笑みを深くして、後ろに控えていた少女の背を押した。
「娘の
よろしくお願いします、と鈴の鳴るような声が続く。
静江は同級生に嫌というほど特別扱いを受けていた。所在無さげに微笑む姿は心もとなくも思えたが、瞳に怯えはない。あの子達とは異なる雰囲気を持っているようだ。
一向に動きのない二人の頭を見下ろした梅辻卿は眩しそうに笑う。
「体力に自信がないので外で遊ぶことはできませんが、よい話相手にはなるでしょう。美幸、家を案内さしあげて」
父の言葉に素直に頷いた美幸は静江に向きなおった。
「静江様はお庭がよろしいですか? それとも、屋敷にしましょうか?」
「屋敷をお願いします」
落ち着いた声音の問いに少しの間考えた静江は、美幸の体にさわっては困ると風のあたらない方を選んだ。静江も色白ともてはやされるが、美幸の肌はもっとはかなく白いからだ。
失礼のないように、という父の言葉に見送れ静江は美幸の後についた。
掛け軸の作者や逸話を聞きながら廊下を歩き、洋造りの医務室では機器の簡単な説明を聞いた。流れるような言葉に感心しつつも、ときめくような物は目に写らない。椿小路も医術の心得があるからだ。
心の奥底で冷めた目をしていた静江の耳にささめきのような笑い声が届いた。顔を向ければ、茶目っけを含んだ瞳とかち合う。
すみません、と穏やかに細められた目は慈愛に満ちている。
「思い出し笑いをしてしまいました」
「どんな思い出か、聞いてもいいですか」
気付けば、静江の口はそう訊いていた。
美幸は一層うれしそうに微笑んで流暢に話し出す。
「昔、兄が内緒でこの部屋に入ったことがありました。入ってはだめだと言いつけられていたのに、です。父に見つかった兄は猫が入ったから、出そうとしたと言ったそうです。なのに、肝心の猫がいないものだから、嘘をつくなとこっぴどく叱られてしまって……普段、嘘をつかない人ですから余計に怒られたそうですよ」
一息ついた美幸はそばに置いてある薬缶をそっと撫でた。静江の視線に気付いて、笑い声を耐えながら続ける。
「次の日に薬缶の中を見てみれば、確かに子猫がいたのです。まさかそんな所に隠れていると思っていなかった父は謝り、虫の息のその子の面倒を見たのは兄でした。安心してくださいね、今も猫は元気にしています」
「……やさしいのですね」
「ええ、妹が言うのも何ですが、自慢の兄です」
兄弟仲がいいのだろう、今までの微笑みよりも温かみのある顔に静江の顔も
渡り廊下に出ると庭を見渡すことができた。青青とした葉が清涼な空気を作り出している。
上からの影に静江は目を細めた。程よくそそぐ陽が心地いい。見覚えのある青い実が目に入り、梅だと気付く。表にはない理由は、実が路を汚してはいけないし、潰されてもいけないから奥に囲っているのだろうと悟った。何処までも続く並木の先を目で追い、人影を見付けて足を止める。
五つ離れた長兄と同じ年頃だろうか。葉の織り成す影を浴びながら、隙間から空を見上げていた。ゆったりと組んだ腕に三毛猫をのせ、おだやかな顔にはゆるやかな笑みが浮ぶ。
足を止めた静江に気付いた美幸が振り返り、視線の先に目を向けた。あら、と可愛らしい吐息をこぼして兄です、と短く紹介する。
「お兄様!」
少し張っただけの美幸の声が届いたらしい。
兄が振り返り、訝しげに目を細めた。眉と目の間に力が込められているようだ。
近づいてきた兄の顔は徐々におだやかさを取り戻しているが、未だに強ばったままだ。
腕にまどろむ三毛猫が一番呑気なもので、足で首横をかいていた。
美幸が二人の様子に笑い声をこぼし、兄に指摘する。
「お兄様、眼鏡をお忘れですよ」
「……これは失礼しました。通りで見覚えがないわけだ」
一寸の間、目を見開き、眉尻を下げた兄は罰が悪そうな情けないとも取れる顔で笑った。風が気持ちがよかったので、つい、とこぼしながら袂から眼鏡を取り出してかける。おだやかな顔に銀色が加わる。
見覚え、と言われても初対面だろうと不思議に思う静江に笑みが向けられた。
「初めまして、梅辻
眼鏡の奥の瞳はどこまでもやわらかい。
ただ目が悪かっただけだと気付いた静江は名乗ることも忘れて、見つめ返していた。おだやかな瞳に促され、あわてて礼を取る。
「申し遅れました。椿小路静江と申します」
髪をやさしくさらう風が吹き抜け、それに合わせて囁くように葉がゆれた。
頭を下げる静江の視界に光るものが入り、子供のように光の正体を目で追いかける。
わずかな時間が、贈り物の封を開けるような例えがたい永遠で一瞬のものに思えた。
光の正体は銀に縁どられた眼鏡だ。左右対象の丸は固苦しさもひょうきんさもない。その奥に控えた瞳は木漏れ日のようなやわらかい輝きを抱いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます