魔獣を誘い
3
状況を理解するより早く、体が動く。
バッシュはルゥルの手を引いて、騒ぎの方へと駆け出していた。
そうした理由は、二つある。
第一に、ルゥルを民衆の敵意にさらさないためだ。魔獣は魔族が使役するもの。ここでルゥルを一人にしては、真っ先に彼女が疑われる。
第二に――自分でもうんざりするのだが、彼女が元凶である可能性を、ちゃんと考慮してのことだった。
人間には冷たく感じる、ルゥルの手をつかんで走る。
逃げ惑う人をかわすうち、人波が途切れ、赤く染まった道路が目に入った。
街道は四頭だてのエウク馬車がすれ違えるほどに広い。アフランサ市内では『大通り』と称されるそこに、商人らしき者が倒れていた。
石畳に赤い線が残り、鉄の臭気が鼻を刺す。――どうやら、かなり出血している。負傷者は一人ではなく、既に救助され、引っ張られていく者も見えた。
やったのは、ベオルをふた回りも大きくしたような、黒い獣だった。
「ガド・ベオラ……!」
黒く見えるのは体色ではなく、身に帯びた瘴気だ。
魔法使いは動物を飼い馴らし、心を通じて使い魔とする。使い魔は主人の目として、また耳として、知覚情報を提供したり、伝言を届けたりする。
それとは違い、瘴気で凶暴性を引き出し、強制的に支配するのが魔獣化だ。
いわば現地徴用の戦力。大量に生み出すことができ、その数は時に師団規模にもなる。聖地を包囲した魔将アダマリスも、たった一人であれをやった。
バッシュは火球を放ち、敢えて魔獣の敵意を買う。
狙い通り、魔獣は怪我人を離し、こちらに向き直った。
牙をむいて飛びかかってくるのを、バッシュはかわさない。
あいている方の腕で顔をかばい、わざと噛みつかせる。
人骨を引き裂く咬合力だが、勇者の体には小動物のひと噛みだ。
腕に食いつかせたまま、呪文を詠唱。石畳がぐにゃりと歪み、竜の鉤爪のようになって、魔獣をわしづかみにした。
石の拘束具が魔獣を抑える。腕を引き抜き、ほっと息をついたのもつかの間――
「バッシュ様! あちらにも!」
ルゥルの指摘通り、路地から別の一頭が走り込んできた。
路地に逃げ込もうとしていた子どもが、ちょうど鉢合わせ、突き飛ばされる。
幸い、射線は通っている。灼熱光で魔獣の頭蓋を撃ち抜くこともできたが――
バッシュはそうせず、反応が遅れたふりをして、様子を見た。
魔獣が子どもにのしかかり、その喉笛を噛み潰そうとする。
絶望の悲鳴が周辺から飛んだが、魔獣の牙が届くことはなかった。
魔獣が脚をばたつかせ、ふよふよと宙を漂っている。
――誰かの念動力が働いている。それは純粋な魔力の発露であり、バッシュにも難しい。要するに、それはルゥルの仕業だった。
いつの間にか、ルゥルはバッシュの側ではなく、子どもの横に転移している。
子どもは魔獣そのものより、突如現れた魔族の女性におののいた。わあっ、と叫んで後じさりするのを、バッシュが後ろから支えてやる。
「ゆ、勇者様……っ?」
「ありがとう、ルゥルさん。『この子を助けてくれて』」
周囲にも聞こえるよう、バッシュははっきりと言った。
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