あなたを苦しめないように


 マウサの眼に敵意が閃く。火焔の龍が鎌首をもたげたが――それだけだ。


 バッシュは炎を素手で払い、肌を焦がしながら、マウサの魔杖に手を触れた。


「そういう悲しいことを終わらせたくて、俺は講和を決めたんです」


 杖を伝って手をすべらせ、マウサの指を両手で包む。

 硬く強張った彼女の手を、そっと解きほぐすように。


「どうか、わがままを許してください――母さんモーユ

「……ずるいわ」


 バッシュの手に自分の手を重ね、マウサは泣いた。


「卑怯よ! 卑劣じゃない! そんな……それを……今、言うなんて……!」


 マウサが泣き崩れ、座り込む。


「わかってた……私のこの行いは……バッシュの想いを裏切るもので……アイやエルトを裏切って、悲しませることだって……」


 バッシュは、あっとなった。

 グング鳥が言っていた『裏切り』は、そちらか!


 行動を起こす前から、マウサには罪悪感があったのだ。

 そして、迷っていた。自分の行いが、赦されざる裏切りではないかと……。


 マウサはすっと力を抜いて、噛み締めるように、ぽつりと言った。


「私……間違えたのね……?」

「……そう、かもしれない」

「私は母親なんだもの……息子の門出は、笑って送り出すべきよね……?」

「そうしてくれると、嬉しい」

「ごめんなさい、バッシュ。……貴方を苦しめて」

「……ごめんなさいが言えて、偉い」


 バッシュはマウサを抱きしめ、心の底から謝った。


「俺の方こそ、ごめん。……ありがとう、母さん」


 この人が、これ以上悲しまなくていい世界を創りたい。

 それが自分――〈最後の勇者〉が歩むべき道だと、バッシュは思った。


    ◇


 アイに背中を支えられ、マウサが路地を歩いて行く。


 エルトが待つ大聖堂へ出頭し、自身の罪を告白するのだ。バッシュも弁護するつもりだし、エルトとアイのことだから、寛大な沙汰がくだるだろう。


 その後ろについて行きながら、バッシュは大きく肩を回す。

 手足が自由に動くというのは、まったくもって、いいものだ。


 ルゥルがつついと寄ってきて、腑に落ちないという顔でたずねた。


「監禁されたとき、『害意ある者の手引きでは?』とは考えなかったのですか?」

「お師匠はそんな連中とはつるまないよ」

「前にも言ったはずです。利用されたという可能性が」


 くどくど説明する代わりに、バッシュは例の短剣を引っ張り出した。


「……それは?」

「俺のお守り。血のつながった両親が、最期に持たせてくれたもの――らしい」


 彫金が施された柄をつかみ、白刃を手の中で弄ぶ。


「俺を監禁してるあいだも、お師匠はこれを取り上げなかった。こんなのでも、ぐいっとねじ込めば、人を殺せてしまうのにさ」


 夜道でもそうとわかるほど、刃は研ぎ澄まされ、曇りがない。

 命を奪ったことのない刃だ。この先もそうであって欲しいとバッシュは思う。


「だから、信じられた。この人は俺を想ってくれてる。馬鹿みたいなやり方だけど、これはたぶん、愛情なんだろうなって」

「……だとしたら、相当に歪んでいます」

「愛なんて、歪んでるものじゃない? 多かれ少なかれ、さ」


 ぱちぱちと、ルゥルは不思議そうにまばたきした。


「ずいぶん達観していますね。7の3倍も生きていないくせに」

「君らより断然、短命だからね。さっさと老成しないと、人生が終わっちゃうよ」

「……つくづく、おかしな生き物です。人間というのは」

「同感。意外と気が合うかもね、俺たち」


 以前言われたようなことを、言い返す。小洒落た軽口のつもりだったのに、ルゥルはにこりともせず、真顔で応じた。


「不思議の権化みたいな男に言われたくありません。それと普通に気持ち悪いです」

「やっぱ合わねーわ! しっぶい赤酒と甘い乳酒くらい合わない!」


 ふいっとルゥルがそっぽを向く。

 退屈そうに見えたが――一瞬含み笑いを漏らしたのを、勇者は見逃さない。


「――ところでさ」


 ふと思い出して、バッシュはたずねた。


「ルゥルさん、俺を探し回ってたって言ったよね? 君がそこまで熱心に俺を探していたのは、ひょっとして……」

「――はい。このまま何事もなければ、わたくしも楽ができたのですが」


 ふぅ、と億劫そうにため息をつき、ルゥルはうなずいた。


「お遊びはここまで。いよいよ――貴方の敵が、動きます」

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