計略にかけたのは
マウサが呪文を唱えると、浴槽の湯が水蛇と化し、バッシュにからみついた。
水蛇に引っ張られ、バッシュは湯船に落とされる。こうなると、もがいたところで意味はない。バッシュの魔力は封じられたまま、勇気の聖痕も機能しないのでは、きゃあきゃあと乙女のような悲鳴をあげるしかない。
絶望的な気分で水をばしゃばしゃやっているとき、ガンッ、と扉が鳴った。
――玄関だ。
家の入り口、分厚い扉を誰かが殴り、叩き割った。
ぱらぱらと破片が落ち、扉にこぶし大の穴があく。その向こうから、底なし沼のように暗い瞳がのぞいた。
「何を……してるの……?」
先ほどとは別の恐怖で、バッシュはきゃあと悲鳴をあげた。
果たしてそれは、一国の王女がしていい目つきなのだろうか?
虚無を殺気で満たしたような眼で、アイがこちらを見つめていた。
堅固で知られるバムスト樫が、アイの手で焼き菓子のように粉々になる。
そうして、忘我した狂戦士――もとい、アイがのっそりと家に入ってきた。彼女が踏み出す1歩ごとに、バッシュの寿命が1日縮むような気がする。
だが、恐怖する必要はなかった。バッシュの前に立ったアイは、バッシュをくびり殺したりはせず、ただ哀しそうにうつむいただけだった。
「ひどいよ、バッシュ……わたしのことは拒んだくせに、マウサさんとはこんな……爛れた生活……」
「あー……難しいとは思うけど、信じて欲しい。何もなかったんだ」
「――うん。バッシュがそう言うなら……わたし、信じるよ?」
アイは涙をこぼしながら、健気に微笑んだ。
「わたしは何も見なかった……そうだよね?」
「全然信じてねえ! そういう感じじゃなくてね! 今まさに危機ではあったんだけども!」
「アイ――どうして、ここがわかったの?」
服やら魔杖やらを手元に引き寄せつつ、マウサが油断なく問うた。
「〈迷い道〉の結界は破られてない。案内なしで、たどりつけるわけがないのに」
「……この子の歌が聞こえて……追いかけてきたんです」
アイがそっと左手を出す。そこに、石化鳥グングがとまっていた。
「この歌……騎士寮の寮歌で……グングなんて普通の人は飼わないし……だからわたし、絶対おかしいと思って……」
「……そういうこと」
傷ついたような眼で、マウサがでバッシュを見る。
そう――これはバッシュが狙ったことだ。
アイと自分にしかわからない、一種の符牒のようなもの。
アイは今もバッシュを探し回っている。そして彼女なら、絶対に気付いてくれる。そういう信頼に基く、賭けだった。
悪いのはマウサのはずなのに、バッシュの胸がずきりと痛む。
傷ついたのはマウサだけではない。
べしょべしょに泣きながら、アイはフリグダインを構えた。
「マウサさん、わたしたちを騙したんですか……っ? わたしとエルトちゃんを……!」
「……ごめんなさい。隠していたことは謝るわ。だけど」
マウサは真剣な声音で、気高い理想を語るかのように言った。
「わかって頂戴。養い親として、私にはバッシュを更生させる義務があるの」
「更……生?」
「そうよ。魔族と結婚なんて、馬鹿げてる」
アイがはっとしたように息をのむ。
マウサは断固とした口調で、道理を説くように言った。
「バッシュは人間よ。人間の勇者よ。当然、人間の女の子と結婚するべきよ。育ての母として言わせてもらうと、それは素敵な娘さんじゃなきゃだめよ」
「素敵な……?」
「そう、気立てのいい娘さんよ。バッシュのことをよく知っていて、何かと支えてくれる子よ。家柄がよければ、なおいいわ。そうね、たとえば――貴女みたいな」
それはまさしく、殺し文句だった。
神剣フリグダインがすべり落ち、床の上を騒がしくはねる。
アイは切なげに顔を歪め、弱々しくつぶやいた。
「ごめん、バッシュ……わたし、マウサさんとは戦えない……!」
「のせられてるだけだよ! 何しにきたんだバカタレが!」
「ひっ――どぉい! 何よ! バカタレなのはバッシュでしょ!」
ぎゃんぎゃんと言い争いになる。
そうこうするあいだに、マウサは服を着て、杖を構え、臨戦態勢になっていた。
アイがマウサの側に寝返ったも同然の今、今度こそバッシュの命運は尽きた――かと思われたが。
「あきれますね、勇者バッシュ……。このわたくしをさんざん走り回らせておきながら、ご自分は楽しく水遊びとは」
音もなく、また気配もなく、虚空からにじみ出る灰色の美貌。
「清々しいほどのうんこ野郎です。死ねばいいのに」
清々しいほどの毒を吐きつつ、ルゥルが救援に現れた。
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