感情があふれたのは


 上体を大きく振って、マウサの手を振り払う。


「大魔導師と讃えられ、大陸中の魔法使いに敬われる方が、こんな犯罪まがいの――てかもう絶対犯罪ですけど――監禁事件をやらかして! 息子を脱がしてお風呂に入れたい、じゃあないんですよ! 正気に返れ! バカタレが!」


 いんいんとこだまする残響。

 直後に訪れる、耳が痛いほどの静寂。


 今さら冷静になり、バッシュの背中に冷や汗が噴き出した。

 やば――ちょっと――言い過ぎた?


「そんな言い方……しなくても、いいじゃない……っ」


 見る間に涙が盛り上がり、マウサはわっと泣き出した。


「私だって……私だって……帰りたかった!」

「――――」

「この家に……貴方のところに……戻りたかった!」


 魔法使いの頂点にして〈魔法師団〉ただ一人の生き残り。

 智の聖痕に祝福されし、大魔導師マウサともあろう者が――


 綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、子どものように泣きじゃくる。


「真っ暗な石の中で……ときどき目を覚ましては……思ったわ! あの子は幾つになったのかしら……寒さで凍えてないかしら……お腹をすかしてないかしら……」


 大悪魔バウロウドの呪いを受け、時の経過もわからない暗闇に囚われながら、彼女も当然、苦しんだ。それは、バッシュもわかっていたことだ。


「もし今、貴方のもとに帰れたら……何でもしてあげるのに、って!」


 床に座り込み、顔を覆って泣くマウサを、バッシュは呆然と見下ろした。


 ようやく、わかった。

 旅が終わってからの一か月。王都を離れていたマウサが、塔で何をしていたのか。


 ――料理だ。マウサはおそらく、料理の修業をしていた!

 かつて満足にできなかったことを、息子にしてやりたいと思って……。


 何と不器用で――絶望的に下手くそで――純粋なのか。


 幼児の頃から一緒にいたため、彼女は成熟した大人だと思っていた。

 だが、そんなはずはない。バッシュを拾ったとき、マウサは今のバッシュより3つ、4つも年若い、世間知らずの少女に過ぎなかった。


 今のバッシュにも、子どもじみた側面があるように。

 マウサにだって、未成熟の部分がある。

 そんな彼女に、バッシュは完全な大人であることを求め、強いていた。


 それは、甘えだ。自分の弱さを、マウサに背負わせていただけだ。

 彼女は母親なのだからと。もっともらしい理由を盾にして……。


 過ちに気付いたバッシュは、その場に膝をつき、謝った。


「……すみません、お師匠。俺……貴女の気持ちも考えず」

「うっ、うっ……ごめんなさいが言えて……偉い……!」


 それは、幼児だったバッシュが、幾度となく聞いた言い回しだ。

 マウサに泣きやんで欲しくて、バッシュはできるところまで譲歩した。


「やっぱり俺、風呂に入れてもらうことにします」

「……いいの?」

「でも前は絶対、隠しますからね? 手錠は前でしてくださいよ?」

「うん……♡」


 互いに譲歩し合って、落としどころを見つけ出す。


 ――良心の呵責で、冷静な思考ができていない気がする。だが、マウサが笑ってくれたので、バッシュはこれでいいのだと思うことにした。


 マウサが呪文を唱えると、バッシュの衣服が消え、離れた場所に積み重なった。護り刀の短剣も、きちんとその上に転移する。


 約束通り、手錠は体の前側へ。これで、見られたくない部位は手ぬぐいで隠せる。万全とはとても言えないが、まあ許容範囲――


 の、はずだった。

 マウサの衣装が、すとん、と床に落ちるまでは。


「ちょおっ!? 何でそっちも脱いでんです!?」

「だって、服が濡れるわ?」

「乾かしゃいいんですよ! てか、お師匠ほどの魔法使いなら」

「撥水幕くらい張れるでしょって言いたいのね。そのくらい、お見通しよ」

「何ドヤってんだ! 下着を脱ぐな! 待て!」

「だめよ。だって私――決めたんだもの」


 決意を秘めた声音でそう言って、一糸まとわぬ姿になる。

 見られて恥ずかしい部分など存在しない、とでも言いたげな、堂々たる立ち姿だ。


 うっとりとバッシュを見つめる瞳の奥で、情欲の火がちろりと燃えた。


 マウサはかすかに舌なめずりをして、


「魔族に奪われるくらいなら、いっそ――私のものにするって」

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