辛酸を舐めたのは


 渓谷の狭い空に、三つの夕月が並ぶ頃。


 青白い凍土の上に、6人が倒れ伏していた。

 その半数はもう、人の形をしていない。


 立っている人間は、マウサだけ。


 子どものような笑い声が山中にこだまし、ひどく耳障りだ。

 大量のフィリオウ――邪霊と化した妖精たちが騒がしく飛び回っている。


 そしてその中心に、この惨事の元凶、赤銅色の悪魔がいた。


 発達した腕はごつごつと岩っぽく、ドゥラム樹の幹のよう。頭部はオスタの頭蓋のように長く変容し、ねじれた角が雄々しく広がっている。


 体躯は膨れ上がり、マウサの倍はある。あふれる魔力が炎となり、足もとの雪を溶かして、水蒸気に変えていた。


『大したものだよ、人間』


 がらんがらんと鐘のように響く声で、悪魔は言った。


『この私を――魔帝三軍筆頭バウロウドをして、こうまで手こずらせる。イマの時代でさえ、おまえほどの人間は稀少だった』

「……見てきたように言うのね」

『見たのだよ。それが我ら超越者と、人の身にすがりつく愚か者どもの差だ。人間の寿命はどんなに長くとも7のダイム倍。我らはその7倍を老いずに生きて――』

「そろそろ、黙って?」


 ぺっと唾棄して、マウサは挑発的に冷笑した。


「魔族の声は耳を穢す。魔族に語れば舌が穢れる」

『ふふ……負け惜しみにしか聞こえんが、聞き流してやろう。私は気分がいい』


 悪魔はどこか自慢げに、大きく張り出した自身の角を指でなぞった。


『たった7人で〈魔法師団〉などと。魔族に並んだような言い様の、不遜な大魔導師どもを一掃できた。くだらん仕込みの甲斐もあろうというもの』

「仕込み……ですって? まさか、あの古文書は……っ!」


 悪魔は目を細め、にたりと笑った。


『愚かなり。まんまと餌に食いついた』


 マウサがよろめく。不甲斐なさで、めまいがしたか。


 考えて見れば、道理だ。こんな人外魔境に、騎士や兵士を同行させるはずがない。魔法使いしかいないとわかっていれば、対策の立てようはある。たとえば、魔力に耐性を持つ妖魔――フィリオウを呼び寄せておく、などだ。


 そんなマウサの心情を見抜いたように、悪魔はこんなことを言った。


『では、取引だ。この男、まだ息があろう?』


 己の足もと、あの髭もじゃの、大柄な魔法使いを示す。


『おまえともども、生かしてやる。その代わり、おまえは私と契約し――』

「〈魔戒まかい〉で嵌めようだなんて。甘く見ないで」


 魔戒はいわゆる〈悪魔の取引〉。願いを叶える代わりに、何やかやの末、結局は人の魂を奪うというもの。


 マウサは内容を聞きもしない。……これが正しい選択だ。魔族から持ちかけた取引など、ろくなものではない。


 マウサの対応を見て、悪魔はむしろ面白がるような目をした。


『ほう――ほうほう。おまえは本当に惜しい。人間にしておくのがもったいない』

「ひどい侮辱ね。反吐が出る」

『ふむ……おまえはアフランサの生まれか。故郷は……何と行ったか――そう、カノスの地だ。そこで……おまえは親を亡くした。村を焼かれて――そうだな?』


 いきなり生い立ちを言い当てられ、マウサは内心、動揺した。

 悪魔はにやにや笑いながら、なぶるように言う。


『いいことを教えてやろう。その火を放ったのは、私だよ』

「耳を貸すなマウサ! こいつはおまえの心を読んで――」


 大男が叫ぶ。悪魔のかかとが振り下ろされ、彼はただの血だまりになった。


 瞬間、マウサの心に憤激の火花が散った。

 抑えて抑えて、どうにか抑え込んでいた憎悪に、それは引火する。


 髪が逆立ち、魔力が噴き出す。そんなマウサを見て、悪魔は哄笑した。


『愚か者め! 憎悪を見せたな! このバウロウドに!』


 不意に、マウサの全身が強張った。

 人形のように立ち尽くす。手足が言うことをきかず、まばたきすらできない。


 肉体の支配権を奪われた。次は意識が飛びそうだ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る