こぼれ落ちたのは
4
ああ、と得心した様子で、マウサはうなずいた。
「そうよね、ずっと寝ていたのだし。気付かなくてごめんなさい」
立ち上がり、何かの鍵を差し込んで、壁にのびた金具を外す。
それで、バッシュを椅子にくくりつけていた、鎖の戒めがすんなり外れた。
手枷、足枷はそのままなので、自由に動けるわけではない。
「それじゃ、行きましょうか」
「いや……厠くらい一人で行けます……けど?」
敢えて、とぼける。しかし、マウサには通用しない。
「ふふ、うっかりさん。両手がその状態で、どうやってするの?」
「わかってるなら外してくださいよ!」
「だめよ」
マウサは冷たく切り捨てた。
それから、にっこりと笑った。
「心配しないで。私が脱がして、そっとつまんであげる」
「やめてくださいよ!?」
「どうして? 貴方が3歳になるまで、そうしてたわ?」
「もうその6倍生きてんですよ、こっちは!」
愚図る赤ん坊を見るような目をして、マウサはため息をついた。
「聞き分けのない子ね……」
「俺がわがまま言ってるみたいな感じにするの、やめてくれます?」
「小さい頃を思い出して? おしりだって、私が拭いてあげたでしょう?」
「だから! こっちはもう色々小さくないんですって!」
背中の手錠をがちゃがちゃやって、バッシュは不満を訴える。
「この手錠を体の前にしてくれれば、一人でやれますから!」
「だめよ。そんなことしたら、貴方は」
マウサの漆黒の双眸に、深い悲しみの色が浮かんだ。
「私を殴り倒して、逃げてしまうわ」
「そんなわけ――」
ないでしょう、とは言えなかった。
必要とあらば、それをやる男だ、バッシュは。
親であろうと、恩人だろうと、関係ない。旅の途中、アイに成りすまして近付いてきた魔族を、一刀のもとに斬り伏せもした。
「……じゃあ、提案。ちょっと手間ではあるんですけど」
高まる尿意を抑えつつ、バッシュは早口で言った。
「厠の壁に片手をつないで、片手は外してもらって――ってのはどうですか? 俺が中で暴れても、お師匠の魔法でどうとでもできるでしょ?」
「だめよ」
「何でですか!」
「だって私、どうしても下のお世話がしたいのだもの」
「嫌な本音がボロンと出たなぁ!?」
マウサはそれきり口をつぐんだ。――議論するつもりはないようだ。
バッシュはあきらめ、ひょいと両足で床を蹴って、椅子の上に飛び乗った。
マウサが眼光を鋭くし、威圧的に訊く。
「何のつもり?」
「そんな屈辱を与える気なら、俺は自害する」
「っ!?」
人間の頭なんてものは、存外と脆弱だ。跳ぶなり倒れるなりで思い切り叩きつけてやれば、頭を割るのも、首を折るのも不可能ではない。
まして、今のバッシュは常人で、ここには聖女の加護もないのだ。
「――だめっ!」
可哀相なくらい必死に、マウサがバッシュの腰にしがみついた。
「だめよバッシュ! そんなこと! お願い! ごめんなさい! だからやめて! 二度と言わないで! お願いだから……!」
自分の行動がもたらした、あまりにも大きな変化に、バッシュの方が驚いた。
先ほどまでの計算高さ、駆け引き、威厳も迫力もどこかに行った。マウサは完全に取り乱し、涙すら浮かべている。
――こんなにも、脆い人だっただろうか?
否、マウサは常にしたたかで、打たれ強かった。旅のあいだ、どんな窮地に陥ろうとも、マウサだけは取り乱すことがなかったのに……。
「私が意地悪で貴方を辱めると思うの? 貴方、私をそんなふうに見ていたの?」
傷ついたように言われ、バッシュは「うっ」となった。
息子というものは大抵、たとえ反抗期であっても、母親の涙には弱いものなのだ。
「別に、そういうわけじゃ……ないですけど」
「動けない子を母がいたわり、世話をするのが、そんなにおかしいこと?」
「そういう言い方されると……否定しにくいけれども」
あやうくほだされかけたが、バッシュはちゃんと冷静になった。
「前提がおかしい! 俺が動けないのは、お師匠に拘束されてるからですよ!」
マウサはさっと視線をそらし――
こつん、と自分の頭にこぶしをぶつけた。
「うっかりさん♡」
「じゃねえ! もう自害! はい自害!」
「嫌! やめて! わかったわ! 私の負けよ!」
かくして、バッシュは無事、魂の平穏を勝ち取ったのである。
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