恐怖を誘うものが
バッシュが掲げる『魔族との融和』は、口にするのもはばかられる、恐ろしい思想だ。間違いなく異端であるし、教団の教義を否定している。
それでも、バッシュの言うことだからと、エルトは理解しようと努めた。世界に平和をもたらす唯一の手段だと言われたら、理屈はわかる気もした。
魔族とて人間の類縁種。森の民や山の民、獣人や竜人たちと同じだ。魔族も戦火の犠牲者であり、人間に殺されてもいる。
――と頭ではわかっているのに、心が理解を拒む。
だって、彼らは侵略者だ。魔族が攻めてこなければ、戦争はなかった。7世紀ものあいだ、彼らはその強大な魔法を用いて、破壊と殺戮を繰り返してきたのだ。
バッシュを信じたいのに、どうしても信じられない。
旅が終わってからの7週間、エルトはずっと、その苦悩の中にいた。
そしていつしか、自分でも気付かないうちに――バッシュを恨めしく思っていた。
戦争が終わり、聖剣は無用の長物になり、聖女の役目も無くなったから、わたしはもう必要ないんですね――と。
だからバッシュ様は、顔も見せに来てくれないんですね――と。
結果から言えば、それは邪推だった。
バッシュは大聖堂に日参し、神官たちに門前払いを食っていた。
エルトが勝手に思い込み、いじけていただけ、ということになる。
先ほど神官たちを叱らなかったのは、バッシュに言われたからでも、ましてや優しさからでもない。お門違いだと気付いたからだ。
だってもし、わたしに勇気があったなら。
こちらから会いに行けた。騎士寮にまで赴かずともいい。ほんの一歩、聖堂の外に踏み出していれば。バッシュと鉢合わせる朝もあったはず……。
そんな簡単なことが、できなかった。
君はもう要らないよと、告げられるのが怖かった。
バッシュがそんなことを言うはずがないのに、彼を信じられなかった。
わたしは本当に、弱くて。
浅ましくて。ずるくて。疑り深くて。
恩人のはずのバッシュを、愛してくれないと言って責めている。
だから、選ばれないのは当然なのだ。
こんな黒い、汚い子は――
◇
「……死んでしまえば、いいのに」
それは、エルトが生まれて初めて吐いた、明確な呪いの言葉だった。
その対象が自分自身であるというのが、何とも彼女らしい。
「聖女様!」
侍従の巫女たちが飛んできて、エルトを抱き起こす。
――いつの間にか、倒れ込んでいたらしい。
エルトにはもう、自分が立っているのか、寝ているのか、それすらわからない。
呼吸がうまくできず、激しいめまいに襲われている。
「聖女様、どうかお気を強く……お心を安らかに……!」
いたわるように、巫女がささやく。彼女たちもまた、動揺は隠せていない。
「怖ろしいことです。勇者様が、あのような……」
「今は祈りましょう……主がまた、あの方を正しき道へ導いてくださるように」
巫女たちが祈りの文句を唱和する。それはエルトにとっての子守唄だ。苦しみがやわらぐのを感じながら、エルトの心はまた、未練がましく『あの日』に飛んだ。
エルトにとって、もっとも幸福な記憶。
勇者バッシュが聖地フェムロンを救った、輝かしき〈栄光の日〉――
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