聖女のさだめが
4
遠ざかるバッシュの背中が、エルトの視界でぼやけて、にじんだ。
「何とふてぶてしい……不敬も極まる!」
「あの言いざま、完全に邪教徒ではないか……」
「〈勇者の花嫁〉を見捨てた上に、魔族を味方だなどと――異端者め!」
神官たちは大層、腹を立てていた。バッシュが悪く言われるたび、エルトの呼吸が浅く、速くなっていく。
途方もない無力感が、エルトの胸を締めつけた。
愛しい人が、邪教の思想に染まっていく。
それはきっと、聖女としての力と器が、わたしに足りなかったからだ。
だからバッシュはしきたりを破り、聖女ではなく魔王などを伴侶に――
わたしは一体、どこで間違えたのだろう?
何を、どうすればよかったのだろう?
◇
振り返るまでもなく、エルトの人生は常に教団とともにあった。
教団は今でこそ人々の精神的支柱であり、医療、福祉、司法の要であり、政治的にも不可欠の存在だが、本来は聖女を探し出し、育成するための機関だ。
聖女とは〈慈愛の聖痕〉――教団はそれを光の聖痕と呼ぶ――を持って生まれる赤子のことで、生まれながらに聖剣の加護を身に宿し、長じれば必ず絶大な法力の才を発揮する。
その時代の勇者にとって、絶対に欠くことができない戦力だ。
エルトも伝統通り、洗礼の秘蹟によって見い出され、教団によって育てられた。
勇者一行に加わるまで、エルトは聖地フェムロンを離れたことがない。
生活圏はその中枢、男子禁制の〈聖域〉内部に限られる。聖域――すなわち〈アダンの壁〉の内側には、たとえ法王であっても、男であれば入れない。
護衛兼世話役の巫女たちと、聖女のみが住まう男性禁足地、それが聖域だ。
聖域で天使のように崇められ、敬われ、距離を置かれながら、エルトは日々修養に励み、ひたすらに勇者の到来を待った。
勇者バッシュ。彼のことを想えば、エルトはいつだって胸が苦しくなる。
いつから、こんなに苦しくなってしまったのだろう?
出逢った頃は、もっと甘く、幸福な時間だったはずなのに。
たぶん――アイの気持ちを知ったときからだ。
姫騎士アイは、エルトにとって初めての友人だ。
出逢って間もない頃、二人で語らった夜のことを、エルトは懐かしく思い出す。
冬の足音が聞こえ始めた、肌寒い夜。二人はエバの草湯を手に、冴え冴えとした二つの月を眺めていた。
「するとアイ様は、旅立ちの以前から、バッシュ様と親しく――」
「待った! わたしに『様』はつけなくていいよ~」
「えっ? ですが、アイ様はアフランサの王族で」
「今はただの旅の騎士だし。わたしは名前で呼びたいから!」
だってね……、とアイは続けた。
「いつまでも『聖女様』って呼んでたら、仲良くなれない気がしない?」
つまり、『仲良くなりたい』と言ってくれている。
それがとても嬉しくて、エルトも勇気を出す気になった。
「じゃ、じゃあ、アイ……さん」
途中でくじけ、『さん』がつく。さすがに呼び捨ては難しい。
アイは屈託なく笑って、こつんとエルトに頭を寄せた。彼女があんまり楽しそうに笑うので、エルトも何だか楽しくなって、一緒になって笑った。
こんなふうに誰かと笑い合うなんて、きっと生まれて初めてだ。
このときから、アイはバッシュとは別の意味で、エルトの『特別』になった。
天真爛漫で、多少無鉄砲で、裏表のないアイを、エルトはすぐ好きになった。
高位の神官や巫女たちは、決して素顔をエルトに見せない。バッシュでさえ、何を考えているのかわからないときがある。
だが、アイは素直だ。彼女が隠そうとした不満や、痛みや、喜びまで、エルトは感じ取ることができた。
だから――
アイがバッシュをどう思っているかなんて、すぐにわかってしまったのだ。
アイがバッシュと肩を並べ、敵陣を切り裂く姿に、エルトは憧れた。
互いに背中を護り合う、呼吸の合いが羨ましかった。
二人しか知らない秘密を、二人は幾つも持っていた。
旅のあいだは恋敵のようにふるまっていたが、本当はもうずっと前から、エルトは覚悟していたのだ。わたしはきっと、このひとに敗けるのだろう、と。
アイになら、バッシュを取られてもいい。
大好きな二人が結ばれるのを、わたしはきっと祝福できる。この胸の痛みも――ときどきは泣いてしまうだろうけど――抱きしめて生きていける。
そうした心の紆余曲折、切ない葛藤の日々を踏みつけにして。
勇者バッシュは、魔族の女王と婚約したのである。
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