涙の理由が


 エルトの眼に再び涙の粒が盛り上がったのを見て、バッシュは大いに焦る。


「ごめん! 怒ってない! 君を責めたわけでもないよっ?」

「ひぐっ……ずびばぜんっ……違うんですっ……わたしただ……嬉しくて」


 エルトは小さなこぶしで涙を払い、微笑んだ。


「わたし、これからも――バッシュ様にお会いして、いいんですね?」

「当たり前だよ。君がもう会ってくれないなんて、俺の方が悲しいよ」

「一緒にお食事をしたり、おしゃべりをしても、いいんですね?」

「誘いたかったよ。この王都を、街中案内したかった」

「嬉しいです。嬉しいな……」


 両手の指先を合わせ、胸の前でもてあそぶ。恥ずかしいときなど、彼女が無意識によくやっている、愛らしい癖だ。


 その姿を見て、バッシュの胸につかえていた懸念が、ひとつ晴れた。


「本当……よかったよ。君が思ったより元気そうで」

「え?」

「具合はどう? 体調はもういいの?」


 エルトはきょとんとして、山ルミ鳥のように小さく首をひねった。

 何のことかわからない、という顔だ。


 ――なるほど、そういうことか。

 どうやらバッシュは、神官たちに一杯食わされたらしい。


 旅を終えてからというもの、バッシュはほぼ連日、大聖堂に顔を出していた。

 旅の仲間である聖女エルトが、ここに滞在していたからだ。


 だが、会うことはできなかった。神官たちは気の毒そうに、『聖女様はご体調が優れず――』と告げるばかりで、取り次いでもくれなかった。


 彼らの言葉を疑いたくはなかったが、裏があるかもしれないとは思っていた。


 何せ、バッシュは魔族の王と婚約したのだ。神官たちがバッシュを敵視するのは当然で、教団がバッシュを異端に認定しても文句は言えない。ほかでもないエルトに愛想を尽かされた可能性も大いにあった。


 エルトは聡明な少女なので、そうした事情を即座に見抜いた。


 細い眉がきゅっと眉間に寄る。彼女にしては『血相が変わった』と言えるだろう。


 椅子を鳴らして立ち上がり、部屋を出て行こうとするのを、バッシュは袖をつかんで引き止めた。


「待ってエルト。神官たちを怒るのは『無し』で」

「なぜですか! 勇者様が訪ねていらしたのに、嘘をついて追い返すなんて……! 虚言は教団が定める七罪のひとつですよっ?」

「人を思いやってつく嘘は、別だよ」


 というバッシュの言葉に、エルトは虚を突かれたような顔をした。


「みんな、君を護りたかっただけだ。俺が、その……魔族の側に寝返ったんじゃないかって、心配してるわけだからさ」


 こうしている今も、開けっ放しの扉の向こう、廊下に複数の気配がある。

 聖女に万が一がないようにという配慮だ。教団はバッシュを警戒している。


 エルトは思い詰めたような顔をして、廊下に向き直った。


「……わたし、やっぱり言ってきます」

「怒っちゃ駄目だって!」

「主はおっしゃいました。怒鳴り声に従う者は、恐怖に隷属したのである」


 いたずらっぽく聖典の一節を口ずさみ、上品に微笑む。


「ですから、怒りません。理を聡し、言い聞かせます。バッシュ様には――」


 ふと、迷うような間があいた。


「深い……お考えがあるのだと」


 とととっと小走りに部屋を出て、監視に見せつけるように扉を閉める。

 本人は当てこすったつもりだろうが、すねたようにしか見えないのが彼女らしい。


 静寂が訪れる。バッシュはとりあえず水差しをつかみ、喉を潤した。


 見た目の上では一人きりになった部屋で、壁に向かって呼びかける。


「で――ルゥルさんはいつまでそうしてるつもりなんです?」


 ぐらりと虚空が揺れ動き、水面のような波紋を立てた。

 その歪みの中から、ぬっと人影が現れる。


「……存外、勘が働きますね。この術で寝首をかくのは無理そうです」


 差し詰め、『敵地での緊張をほぐす冗句』だろうか。

 不穏当なことを言いながら、侍女服を着た魔族――ルゥルが姿を現した。

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