英雄だから


 一瞬の沈黙ののち、となりの枝がかさりと揺れて、魔族の女性が出現した。


 隠形の魔法――あるいは眩惑の魔法か。いずれにせよ、極めて精緻な技術だ。手練れの騎士でも、高位の魔族でも、おそらく見破れまい。


 風に泳ぐ金髪を手櫛で整え、ルゥルはしれっとして言った。


「無論、初めからです」


 バッシュは大いに赤面した。顔に出したくなかったが、血流は止められない。


 今日の出来事は、間違いなく醜聞になる。

 勇者と仲間の、言ってしまえば『痴情のもつれ』。しかもバッシュは少女ひとりに組みしかれ、実質されるがままだった。


 かつて敵だった魔界の貴族に、あんな情けないところを見られてしまうとは……。


「最初から最後まで、全部見た……って感じ?」

「それはもう。一部始終を陛下に報告しなければなりませんし」

「やめてよ!? 婚約破棄されちゃう!」

「なぜです?」


 本当にわからない、という様子で、ルゥルは小首を傾げた。


「誠意ある対応だと思いましたよ。わたくしは感心いたしました。人間なんて、さかりのついた雄ベオルみたいなものだと思ってましたのに――ご存知ですか? ベオルは最中に首を落としても腰だけいつまでもへこへこと」

「そんな豆知識はいらねえんですよ! 何なのこの人!?」


 やらしいっと憤慨するバッシュの横で、ルゥルは意外にもやわらかく言った。


「貴方には心に決めた方が在るのでしょう? ならば、仕方のないことです」

「……うん」

「ご不満でしたら、側室を置きますか?」

「一国の王女を平民が第二夫人にするの?」


 そんな無礼が世間に許されるはずがない。そもそも、それはバッシュが思うアイの幸福のかたちではない。


 ルゥルはあきらめず、


「割り切って体だけの関係になるという手も――」

「ないよ! 何もかも泥沼のグズッグズになるでしょうが!」

「ちっ……思ったより知恵が回る……」

「何で舌打ちが出たの? まさか俺の結婚をブチ壊したいの?」

「などという湿った空気を和ませるための冗句はさておきまして」


 ふざけているのか、本気なのか、まるでわからない。翻弄されている自分に辟易しながら、バッシュはルゥルの言葉を待った。


 ルゥルは思いのほか真剣な調子で、離宮を眺めながら訊いた。


「大丈夫なのですか、彼女は」

「……大丈夫」


 自身も離宮に向き直りながら、バッシュはうなずいた。


「アイは泣き虫だけど、絶対に折れない。そういう強さがあるんだ。ちっちゃい頃から、俺のエィメン――英雄なんだよ、彼女は。だから」


 ふっと力が抜ける。バッシュは自然と微笑んで、初夏の風に目を細めた。


「すぐに立ち直ってくれる。俺はそう信じてる」

「いい話ふうにまとめようとしていますが、それって貴方の勝手な願望ですよね?」

「まあ……そうだけども」

「貴方に都合のいい人物像を、一方的に押し付けてるだけですよね?」

「そう……なんだけれども!」


 それでも、その願望が現実になると期待して、やっていくしかない。


 人魔の戦争が終わっても、勇者とその仲間たちの人生は続いていくのだ。ならば、立ち止まることはできない。先へ先へと進む世界に、置いて行かれないためには。


「とりあえず、寮に戻ろう。早めの昼食でもとりながら、君の寝床の相談を――」


 刹那、異様な気配を感じ、バッシュは街を振り向いた。


 市街中心部、大聖堂前の広場に、巨大な影が立つ。

 どぉん……、と遅れて地響きが轟き、突風がこちらに吹いてきた。


 真っ白な、巨人。


 大聖堂が小さく見えるほどに大きい。

 そんな巨体が、王都の中心に立っている。


 背筋が凍るような戦慄が、勇者の脳髄を揺さぶった。

 これほど圧倒されるのは、初めて魔将と対峙したとき以来――その魔将はメルゼギスと言った――いや、〈腐れの王〉の胃袋に落とされて以来……。


「どうされますか、バッシュ様」

「――行く!」


 武器を取りに戻る間も惜しい。

 バッシュは着のみ着のまま、巨人の方へ駆け出した。

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