弱くて、強い


 寸前、きんっ、と硬い音がして、短剣が宙を舞った。


 横一閃に振り抜いた姿勢で、アイが動きを止めている。

 その手にあるのは、彼女の愛剣――不滅の神剣フリグダイン。


 主の求めに応じ、虚空から出現した。見た目は少々優美なだけで、これと言った特徴もない細剣だが、聖典にも記載のある魔法の武器だ。幾つか秘められた力があり、街ひとつ程度の距離なら空間を超えてやってくる。


 武器も武器なら、使い手も使い手だ。出現と同時に柄をつかみ、精確に短剣のみを弾いて、バッシュにはかすり傷も負わせていない。


 さすがは姫騎士アイメリウ。驚嘆すべき剣の冴え――いや、問題はそこではない。


「……アイ?」

「っ……」


 なぎ払った体勢のまま、うつむいて顔を上げない。

 やがて細い肩が震え出し、石の床に水滴が落ちた。


 ――アイの涙だ。


「本気……だったでしょ、今……っ」

「……うん」

「そんなに……真剣なんだ……?」

「……うん」

「それじゃ、やっぱり……っ」


 声が震える。

 やっと顔を上げたアイは、すべてを悟ったように、悲しく微笑んでいた。


「わたしじゃ、だめ……なんだね?」


 バッシュはそっと目を伏せ、静かに告げた。


「ごめん」


 ぺたん、と脚のあいだに尻を落とし、アイは床にへたり込んだ。


「バッシュが、わたしを……王女にしてくれた」


 それは違う、とバッシュは思った。

 アイは最初から王女だった。ただ自分を信じていなかっただけだ。


「わたしを騎士に……勇者の仲間に……してくれた」


 それも違う。君は自分で夢を叶えた。そして――


 君が『なってくれた』のだ。勇者の、最初の道連れに。


「わたしね、バッシュのお嫁さんに……なりたかった」

「――――」

「バッシュの子どもの……お母さんにね……っ」


 それ以上は言葉にならない。

 アイは神剣を投げ出して、天を仰いだ。


 わぁん、と声をあげて泣く。

 幼な子のように。もう、こらえることができなくて。


 片手で大木を引っこ抜き、魔獣を蹴散らす無敵の騎士も、今この瞬間は、ひとりの少女に過ぎなかった。自分の無力にうちのめされ、泣き喚くことしかできない。


 どうしてやることもできず、バッシュは黙ってアイの泣く声を聞いた。


 旅の始まりから終わりまで、ずっと側にいてくれたのは彼女だ。

 バッシュが一番つらかったとき、背中を支えてくれたのも。


 彼女の想いに応えられないことを、心の底から不甲斐なく思う。


 震える肩はとてもか細く、涙で濡れた指はいかにも冷たい。

 その手を握り、抱き寄せたいと思ったが――


 それはたぶん、殺人と同じくらい、重い罪だった。


    ◇


 すれ違う町人全員に後ろ指を指されながら、バッシュはアイを離宮に送った。


 既に日も高いというのに、アイは薄着の寝巻き姿。二人の顔はとっくに知られているし、アイはめそめそ泣いているのだから、注目を浴びるのは仕方がない。


 あやうく離宮の兵に取り抑えられそうになったが、何とか振り切って、バッシュは騎士寮の敷地に逃げ込んだ。


 教練場の端、バムスト樫の大樹に登り、枝から離宮を盗み見る。


 そうしながら、バッシュは誰にともなく言った。


「……いつから見てらしたんですか、ルゥルさん?」

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