君は泣いていて


 ほどなく路地が切れ、土の斜面にぶつかった。


 とうに朽ち果てたような、埋もれた塔が建っている。ここはかつての城壁跡で、一部がこうして、破壊されずに現存していた。


 入り口は封鎖されているが、堆積した土の加減で、二階の穴から侵入できる。

 バッシュは音もなくよじ登り、中に入った。


 壁にあいた大穴のせいで、中は案外明るい。湿気もさほどではなく、むしろ居心地のいい秘密基地と言えた。


 そして、その中――石組みの乾いた床の上に、座り込んでいる者がいる。


 膝の上に突っ伏して、顔を上げない。旅のあいだは束ねていることが多かった髪は、今は幕のように広がって、彼女の表情を隠していた。


「昔――君がいなくなると、決まってここだったよね」


 バッシュはわざと無防備に近付き、アイのとなりに腰をおろした。


 アイは顔を伏せたまま、足と尻だけを器用に使って、ちょこちょこと動いて距離を取る。

 バッシュは苦笑しながら、構わず言葉を続けた。


「アイはすっごい負けず嫌いでさ。模擬戦、俺がうっかり連勝しようもんなら、怒って飛び出して行っちゃって。それで大抵、俺が寮長にどやされて」


『殿下に何かあったら、ただじゃおかねえぞ!』


「――って、すごい剣幕。死の山で出くわしたヴィドラ牙獣だって、あんなに怖くなかったよ」


 笑い話にまぎらせつつ、意識して優しく言う。


「寮に戻ろう。俺、朝食もまだなんだ」

「…………」

「君もそうだろ? 久しぶりに、食堂の肉入りメルマウ食べて行きなよ。離宮での食事もそろそろ飽きる頃合い――」


 中途半端なまま、言葉尻が宙に浮く。


 顔を上げたアイが、真っ赤な目をしていたからだ。


「……やだよ、バッシュ」


 ぺたりと床に手をつき、こちらににじり寄ってくる。


「やだよ……やだやだ……やだ!」


 沼地の食人鬼を思い出させる、からみつくような這い寄り方だ。先ほどの抑え込みを味わった後では、恐怖を感じるなと言う方が無理だろう。


 しかし、それでも――

 バッシュは微動だにせず、アイの接近を受け入れた。


 子どもが親を求めるように、アイは必死に手を伸ばす。

 それは、路地をさまよっていたときの、バッシュ自身の姿に思えた。


 バッシュが無抵抗でいると、アイはバッシュの首にしがみつき、長らくせき止められていたであろう感情を、一度にあふれさせた。


「ごめんなさい……違うの……怖がらないで……違う……あんなことがしたかったんじゃない……わたしはただ……いやだよ、バッシュ……やだ……捨てないで……だってわたし、約束したのに……! ひどいよ――ううん違う! わたしが悪い! わかってる……でも、だけど……わたしだって約束した……約束したのに――っ」

「アイ」


 びくっと肩がはね、濁流のようだったアイの言葉が止まった。


「約束って……何のこと?」


 まるで締めつけるようだったアイの手が、するりと離れた。


 アイは力なく身を離し、知らない人を見るようにバッシュを見た。


「覚えて……ないの?」

「ご、ごめん! でも、言ってくれれば思い出すかもしれないから」

「あは――そっか……そう……だよね」


 ふっと、疲れきったような笑みを頬に刻む。


 自嘲――なのか。いつも前向きで、明るくて、太陽のようなアイが、そんな荒んだ表情をするなど、バッシュには予想外のことだった。


 だが、それも一瞬だ。

 アイは照れくさそうに笑って、あっけらかんとして言った。


「ごめんね! わたし今日、おかしかったね!」


 ぴょんと身軽に立ち上がり、大きく伸びをする。


 ――まるで憑き物が落ちたように、口調も表情も普段通り。

 ともに旅をしたときと同じ、いつもの彼女の口ぶりで、アイは笑って言った。


「変なこといっぱい言っちゃいまして……ほんと、ごめんなさい!」

「――アイ」

「もう大丈夫だから! えっと……もろもろの奇行は、忘れてもらえると……!」

「アイ!」


 バッシュは立ち上がり、アイの腕をつかんだ。


「俺は、どんな約束をしたの?」

「……あはは、いいよもう。そんなの、どうだって」

「気になるよ。教えてよ」

「いいってば――」

「駄目だって!」


 つい、声が大きくなった。

 焦りで気が立っている。バッシュはあわてて感情を鎮め、


「……よくないよ、全然」


 いたわりを込めて、そっとささやく。


「アイには大事なことなんだ。だから君は、そんな顔をして」

「そうだよ! わたしにはすごく――すごく大事なことだったのに!」


 我慢できなくなったように、アイがバッシュの手を払う。

 はずみで涙の粒が散り、二人のあいだできらめいた。


「でもバッシュには……っ、そうじゃなかったんでしょ……!?」


 横っ面を張られたような気がして、バッシュは黙った。


 ――そう、アイにはとても大事なことだった。だから、彼女は傷ついた。

 バッシュと自分の、あまりの温度差に。二人の感情の隔たりに。


 アイは数歩後ずさり、石壁に力無くもたれかかった。

 そのままずるずると沈み込み、そろえた膝を抱きしめる。


 ひくっ、ひくっ、としゃくり上げながら、嗚咽混じりにアイは言った。


「もう……ほっといて……っ」


 皮肉にも、その拒絶の言葉が、バッシュの記憶の扉を開けた。

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