ケダモノのようで
「ねえ、バッシュ。わたしのこと……嫌いにならないって言ったよね?」
理由のわからない緊張の糸が、ぴんと張り詰めた。
これとよく似た気配を、バッシュは感じたことがある。目の前に無防備な魔族の一団がいて、これから奇襲をかけようというときの、それだ。
「言った……けど」
「わたしがおかしな考えに取りつかれてても、許してくれるんだよね?」
「まあ……はい」
「それって、つまり」
アイが顔を上げる。黄昏色のアイの瞳が、残光を曳いて動いた。
「こういうことしてもいい、ってことだよね?」
最後の一音は、顔の横から聞こえた。
気付いたときには、懐に入られている。さすが勇名轟く〈暁光の騎士〉。来迎の光が夜を切り裂くような、実に鋭い踏み込みだ。
とっさに身体が反応し、打ち払いそうになるのを、バッシュはこらえる。アイが転倒しただけ、という可能性もなくはなかったし、殺気は感じなかったから。
もちろん、そんな逡巡を見逃してくれる相手ではない。
肩を押されると同時、もう足を払われている。この騎士寮で、ともに学んだ組み打ち術。バッシュは寝台に転がされ、たやすく組み敷かれてしまった。
「アイ!? いきなり何す――ふわっ!?」
反射的に出たバッシュの手が、不自然にやわらかな塊を包む。この感触をたとえて言うなら、オスタ牛の乳を搾るときの――
いや、もう牛も人もなく、要するにそれなのだが。
バッシュの手から、わずかにはみ出る。細身に見えるアイでも、重力の作用が働けば、このくらいの量感にはなるらしい。ひとつ勉強になった――なんて現実逃避をしている間にも、アイは完全に覆いかぶさっていた。
「ね? いいんだよね? 許してくれるんだよねっ?」
「近っ――てか目が怖い!? ちょっとアイさん落ち着いて!」
下手に抵抗されて、狩猟本能が刺激されたらしい。アイはますます興奮し、目をぐるぐるさせながら、バッシュの首元にかじりついてきた。
獲物を前にした肉食獣みたいに、ふーっ、ふーっ、と呼吸が荒い。
狩られる側の恐怖とは、どうやらこういうものらしい。すっかり草食獣の気持ちになって、きゃうーんと悲鳴をあげたくなるバッシュである。
「ごめんねバッシュ……ごめんね! ごめんなさい! ごめんっ……ごめんね!」
「ひえっ!? やめっ……やめろぉ!」
アイの体はつかめば細く、何だかくにゃりとやわらかい。骨格はバッシュよりはるかに華奢だ。にもかかわらず、押しても引いてもびくともしない。
それもそのはず、アイはその身に〈力の聖痕〉を宿す者。この細い体躯で、天下無双の剛力を発揮できるのだ。
単純な力比べでは、勇者であっても分が悪い――それが姫騎士アイだった。
しばし、どったんばったんと、寝台を軋ませながら無益な抵抗をする。
かつての騎士教練で嫌と言うほど思い知らされているが、一度上に乗られると、下から逃れ出るのは困難だ。
バッシュは思考を巡らせた。
魔法で弾き飛ばすしかないが、並みの攻撃魔法ではしのがれる。やるなら大鉄槌か爆裂火球。雷電槍で麻痺させるという手もあるが……。
いずれの場合も、確実に怪我をさせてしまう。ひょっとしたら、心まで。
――アイを傷つけたくない。
だが、もし、このまま『許して』しまったら。
やはり、アイは心に傷を負う。いずれ、自分で自分を許せなくなる。
そういう心の持ち主だと、幼なじみの自分には、わかっているのだ。
ならば、取るべき道はひとつだ。
勇者の判断は早く、決断したなら、躊躇はしない。生じる現象を念想しながら、久方ぶりで呪文を唱えようとしたとき、ふと、状況の変化に気付いた。
アイが石化したように硬直し、じっと真横を見つめている。
「……アイ?」
バッシュも首を起こし、アイの視線を目で追った。
いつの間に入り込んだのか、そこに見知らぬ女性が立っていた。
ひと言で言って、ひと言では言えない人物だった。
切れ長の眼は物憂げで、艶めいて華やか。瞳と髪は明るい金色。すっと伸びた鼻筋が、美術品のような繊細さを感じさせる。
美しい女性だが、人界の住人ではない。肌は灰色で、耳は長くとがっている。
縦長にすぼまる瞳孔は、魔族のみに発現する形質だ。
そして、ひたいに刻まれた〈魔紋〉――貴族階級の証である。
どうやら魔界の貴族らしいが、だとすれば、着ているものが不可解だった。
黒染めの簡素な衣と、前面を覆う白布の前掛け。その取り合わせは、宮廷女官や貴人の侍女が着る『使用人の装束』だ。
魔族で、貴族で、侍女で、闖入者。
バッシュも、アイも、目を離せなくなる。
ややあって、ビェラの花びらのような、薄紫の唇が開いた。
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