第3話 「人妻に恋をする自由」
俺は無事に大学院に進学し、日夜研究に励んでいる。
その一方で、知華さんとの関係も続いている。
「関係」といっても、まあ至って健全なやつだ。
たまに会ってお茶を飲んで、学校での様子を報告し、古生物について話し合う。
時に、互いの愚痴を受け止め合って、励まし合う。
あとは趣味などについて、たわいもない会話。
それだけ。
俺にとって彼女はピンチを救ってくれた恩人で、彼女にとっての俺はなんだろう…… 友人の一端くらいに思ってくれていれば嬉しいけれど。
一緒にいて、こんなに居心地がいい女性は知華さんが初めてだ。
リアルの女の人って疲れる存在だと思っていたのに、彼女といると癒される。
それに、彼女自身も博物館の学芸員という一種研究職だからだろうか、論文を書く上でのアドバイスなども的確でありがたい。
知的で、綺麗で、ほっと出来る女性。
このひとが「彼女」だったらな……そんな、しょうもない事を何度思ったか。
そして厄介な事に、会う度に彼女への想いが募っていく。
彼女は人妻なんだから諦めないと、そう思うのだけれど、それが余計に好きな気持ちを加速させている気もして、俺の恋情は無視できない位に膨れ上がってしまっていた。
∗∗∗
「爺さんだった」
あまりに衝撃的だったので、つい康介に言ってしまった。
「はあ? 何が?」
今日は焼酎をロックをいっている康介が眉を顰める。
「だから、知華さんの旦那さんだよ」
「げっ、お前見にいったのかよ。ストーカーじゃん」
「違うってば。たまたま街で見かけだんだよ。……かなり年配だった」
そう。俺は昨日、知華さんが旦那さんと買い物している所を偶然見かけた。
一瞬、父親か? とも思ったが、あの雰囲気は夫婦に違いない。
俺はつい後ろ暗い気持ちになって、物陰からそっと眺めた。
知華さんの会話の端々から、旦那さんは落ち着いた男性なんだろうとは思っていたが、おじさんというよりもお爺ちゃんな老齢の男性で驚いた。
柔和な笑みを浮かべた、可愛らしい爺さんではあったが……。
あんな年寄り相手で、彼女は満足しているのだろうか。
「お前、何ガッカリしているんだよ。爺さんに負けたのが悔しいのか?」
「まさか違うよ。いや? 違わない?」
「どっちだよ!」
「俺さ、期待していたのかも知れない。知華さんの旦那さんが、俺なんか及びもしない完璧な男である事を。そしたら、すっぱり諦められるだろ?」
そう、高収入で人格者な超イケメンだったらいいな、なんて。
「何いってんの。この顔だけが取り柄の貧乏学生が。知華さんの夫って大学の先生なんだろ? いずれにせよ及びもしないじゃないか」
「そうなんだけどさ、あんな年寄りと……知華さん幸せなのかって思っちゃって」
「話を聞く限りじゃ、彼女充実してそうじゃん。余計なお世話だっつーの。やだねぇ、童貞が恋愛拗らせるとこれだから…… 頼むからストーキングで捕まったりすんなよ」
「…… 俺は、ストーカーじゃないし、童貞でもない」
「マジで? 経験済み? 俺はてっきりそこだけはお前に勝ってると思っていたのに! え、何時よ?」
「どうでもいいだろ、そんな事」
嫌な記憶が蘇った俺はムッとして黙った。
・
・
・
「あ、ごめん。悲惨な初体験だったのね、悪りぃ、悪りぃ」
康介は俺のグラスに烏龍茶を注ぐと、あからさまに不機嫌になった俺の背中をバンバン叩いた。
「ん? 知華さんの苗字って何つったけ?」
「『速水』だよ」
「げ、まさか!」
彼女の苗字を確認した康介は、あからさまに狼狽えた。
「何だよ、お前の親戚だったとか?」
俺の冗談に、康介はふるふると首を振り、スマホで何か検索すると画面を見せてきた。
「お前の言ってた爺さんって、まさかこの人じゃないよな?」
恐る恐る彼が差し出した画面には、昨日より厳しい顔をした知華さんの旦那さんの顔が載っていた。
「この爺さんだけど」
そう言うと、康介はヒッっと息を呑んだ。
「速水賢人っ! この人、化学工学界の権威だぞ。ノーベル賞も射程範囲って位の研究成果を出してる…… 俺達の業界じゃ知らない人はいない有名人…… 奥さんが2回りくらい若いって聞いた事あったけど。嘘ぉ!! 大丈夫だ瑞季、とんでもなく雲の上の人だ。お前じゃ太刀打ちしようも無い。うん、今すぐ綺麗さっぱり諦めるがいい」
「急になんだよ」
「お前、恋愛ベタそうだから不安なんだよ。博士は愛妻家で有名なんだ。万一が起こって、体の関係を持ったりしたら、絶対に訴えられるぞ。そうしたら慰謝料だなんだって、勉強どころじゃなくなるぞお前、やめろ、やめておけ。もう会うな!」
「俺と知華さんは、お前の思っているような関係にはならないよ。俺の永遠の片想い。いいじゃないか、彼女の笑顔を見てるだけで最高に幸せなんだ。『人妻に恋をする自由』くらい認めてくれよ」
「ママ活ってさ、どちらかが本気になったら終わりだっていうぞ。潮時じゃねーのか?」
俺の言葉を聞いた康介は、ため息を吐くといつもより真剣な表情で言った。
「だから、ママ活でも無いって」
俺はハッキリと告げたが、康介は髪をかき上げると、もう一度深いため息を吐いた。
好きになる気持ちはコントロールなんて効かない。
断ち切りたくても、思いが募る。
手の届かない人なら尚更、ただ好きでいさせてほしい。
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