第3話
夏休みが始まった。あれから私は一部のクラスメイトからは遠巻きにされつつも、トラブルもなく一学期を終えることができた。
ネブルとも特に仲が良くなったり……はしていない。彼女は今までと変わらず、教室の隅で誰とも交わらずに物静かに本を読んでいた。ツィネルらを相手にした武勇伝についても、普段の印象とかけ離れているせいか、三日も経てば眉唾の噂として誰も気に留めなくなっていた。
ツィネルとその取り巻きは一連の事件で謹慎処分を受けており、あれ以降学校には来なかった。聞いた話では反性会から手を切られ、借りてきた猫のようにしおらしくしているとか……。騒ぎが大きくならなかったのも、反性会が裏で手を回したからなのかもしれない。
そう、何事もなく平穏な日々はすぐに戻ってきた。ネブルが語ったような「性管理社会」が間近に迫っているなどと信じられない程に、私の世界は安らかで清らかで溶けてしまうような心地よさを奏でている。この住みよい世界を創っているのがDummyなら、それに抗う彼女達は悪なのだろうか……わからない。
私の問いにネブルは何と答えてくれるのだろう。彼女は私が知らないことをたくさん知っている。同じものを持って生まれ、同じようにそれを隠して生きてきて、見えるものがこうも違うなんて……。
――ネブルともう一度話をしたい。
そう思いながら彼女の背を窺い続けるも、不用意に会話していたら、周りに良からぬ詮索をされて迷惑だろうと勝手に尻込みしていた。結局、声をかけられないまま夏休みが始まってしまった。
か細く小さな背はいつしか瞼の裏で可憐な後ろ姿として彩られるようになり、時折私の胸の奥を圧迫する。普段の物静かなネブル、私を助けてくれた時の妖しく鋭い輝きを放つネブル、校舎裏で笑い合った時の温かいネブル、そして、乳首を吸った時の熱っぽい顔をしたネブル……。
どうしてこうも彼女のことばかり考えてしまうのだろうか。脳内からかき消そうと思っても一向に離れない。むしろイメージはさらに強く存在を主張し、胸を高鳴らせる。胸の先端を襲った、あのぬめりを帯びた感覚が甦り、体がもどかしさを訴えてくる。
(またこれだ……。どうしたらこれは収まるの……?)
「教えて、ネブル……」
胸に手を当てて、助けを求めても相手はいない。
空調の効いた涼やかな自室にいるのに、外の爛れるような暑さと結びついているかのように体は火照っている。行き場のない熱情にほだされ、ベッドで体を二転三転させるばかり。
シーツにくるまっていると、だんだんと眠気が湧き、うつらうつらと意識がぼんやりとしてきた。曖昧な意識の中に彼女の声が響いてくる。
――じんじんしている所を触ってみて。
妄想上のネブルに抱かれて、私は快楽の探求に耽った。ふわふわとした恍惚感に身を震わす。くぐもった嬌声が夏の昼下がりにぽつぽつと点を打つ。
でも、私の拙い指運びはもどかしい感触を全身に漲らせただけに過ぎず、私自身を満足させるに至らなかった。恐ろしくなったのだ。自分の体なのに自分で制御できないあの感覚が。自分が消えてしまいそうになるあの感覚が。
次に意識が目覚めた時、部屋の中は薄暗く、夕時を過ぎていた。いつの間にか眠りに落ちていたようだ。シャツの下から主張していた突起はいつものように乳房の中に陥没しており、下腹の冷えた湿り気に不快感を覚える。
「はぁ……何か疲れた……」
――でも、あの幸せな切なさは癖になる。
ネブル達のやろうとしていることは正しいのか、悪なのか、私には答えを出せない。だけど、これが誰かに管理されるのは嫌だな。それだけははっきりと思えた。
「……ん?」
シャワーを浴びようとのそりと身を起こすと、携帯に見知らぬアカウントから着信が入っているのに気が付いた。いたずらか、それとも詐欺か、データベースを参照した限りでは怪しい様子はない。
「誰だろう?」不審に思いつつもとりあえず折り返してみる。暗くなった部屋に発信音だけが空しく響く。
――もしもし。
繋がった。誰だろう? 聞き覚えがある声だ。
「もしもし? えーっと……」
「あ、ごめん。忙しかった?」
「いや! そうじゃなくて……えーっと、どちら様なのかと思って……」
「…………」
しばらくの沈黙……。知り合いだったら悪いなと思った矢先、相手が「ぷっ」と噴き出したのが聞こえた。
「ごめんよースウちゃん。私だよ。ネブル」
「ネブル!?」
連絡先を交換していないのにどうして!?
「あーそれはちょっと……気にしないで」
「え?」
「それはともかくさ!」と彼女はあからさまに話題を変えた。
「今度一緒に遊ばない? 私の思い出作りに協力してよ!」
「思い出?」
「そう。ひと夏の思い出」
電話口から瑠璃色の声が聞こえる。瑞々しい輝きの中に悲しみを孕んだ寂しい声が……。そうだ。夏休みが終われば彼女とはもう会えない。今更だが、あの時のちゃんとしたお礼も言えていない。
「いいよ。私も会いたい」
「ありがとう。ふふっ……。「会いたい」って、何だか恋人みたいだね」
「えぇっ!? あ、いや……」
「じゃあまた連絡するね」と切られてしまった。電話口の向こうでネブルがにやけている様が思い浮かぶ。
「恋人、かぁ……」
濃紺の闇にヒグラシの愛の叫びが連なっているのが聞こえる。窓外に広がるいかにもな「夏」を望みながら、そうなれた時を想い浮かべる。間もなく離れ離れになり、叶わない願いだというのに。
制服を脱いだネブルも実にネブルだった。
「スウちゃん、このままホテル行こっか?」
「えぁ!?」
「冗談だよ。そもそも成年認証を通れないじゃん」
「まあハッキングできなくもないけど」と、小さな背はひらひらと先を行く。本当にやりかねないから「冗談でもやめてね」と釘を刺しておいた。
私が見る街とネブルが見る街とでは一体何が違うのだろう。今日はそれを知りたい。
駅構内は人がせわしく行き交い、多生の縁を微塵も感じさせない。無情な空間の中、私達は人の流れに揺蕩う。
「この駅も昔はもっと雑然としていたらしいよ」
「そうなの?」私の問いにネブルは首肯する。
「例えば、そこのサイネージ広告」
示された先では地元企業のイメージキャラクターがせっせと地域の名物を紹介している映像が流れている。
「あれも色々と物議を醸した結果、無難なものしか流れなくなったの。少なくとも十年前からかな? それ以前は胸や太ももを強調した女キャラとか、顎が尖っていてスラッとした色白男キャラが堂々と使われることもあった。それが良いことか悪いことか別としてね」
ネブルによると、クリエイターへの理解が自治体にも広がり、補助政策も拡充された一方で表現のガイドラインも細かく制定されたらしい。広告は特に厳しく、人物の肌の露出のパーセンテージや服装の丈、描いても良い胸のカップ数まで規定されているという。
「お上から許しを得れば、創りたいものを好きなように創っても良い社会にはなったんだけどね。面倒な枷が付いたからクライアントもああいう楽な形に逃げる」
取ってつけたような特徴的な語尾でキャラクターは健気に宣伝を続けている。
「人外は審査項目も少なく済むからね」
駅を出て、続いて向かった先は様々な媒体を扱う大型書店。各々好きな書籍を購入して隣のカフェに入る。
「書店からのカフェって、まさしく文化系のデートだよね」
ホイップクリームが並々と盛られたカップを前に、ネブルはニコニコしている。
「嫌だった?」
「ううん、素敵だよ。私のイメージ通り、スウちゃんらしいなって」
「言ってくれるじゃん。ところで、それ……何してるの?」
ネブルは「あーこれ?」と、手元の端末を操作し続けた後、「よし」と呟くと、そのまま私に端末の画面を見せた。画面にはいかがわしいを通り越して、インモラルな文字列がずらりと並んでいる。
「うぇぇ……何これ?」
「端の席でタブレットをいじってる男のメディア購入履歴」
……先ほど釘を刺した意味はなかったようだ。該当する男性はいかにも真面目そうで、端末に映っている……その……言葉にするには憚る文字列の品々を愛好しているようには見えない。
「あくまで嗜好として押し留める理性をもっているから、あの紳士はこれを買えているのよ」
あえての紳士呼びの意図を察せられないでいる私をよそに、ネブルは舐めるような目つきで画面をスクロールさせている。「あ、これ、私も持ってるわ」という呟きは聞かなかったことにした。
ネブルの話によると、制作者への枠組みの整備が進む一方で、消費者にも「観察」と称したプライバシーへの干渉が暗に進められているらしい。
「私が盗み見たのはさっき行った書店のグレー顧客データベース。いわゆる「ちょっと社会規範から外れた内容がある作品」を買った人のリストだね。何も無ければ、データは収集されるだけで店も見られないし、客にも不利益はないよ。書店に限らず、ネットからのダウンロードにも同じような構造が取られている」
「何も無ければ?」
「そう。無ければ」
アダルト作品や過激描写がある作品の閲覧に対し、年齢制限に加えて、購入者の記録が定められた。現金決済が廃れ、電子決済が主流となった今では口座もパーソナルIDに紐づけられている為、芋づる式に個人を特定できる。
「Dummyにお尻の穴まで晒して尻尾を振ってりゃ、好きなものを創って、好きなものに触れて良いから住みよい社会ではあるんだよね。今の世の中って」
「お、お尻って……」
「Dummyには種の安定した存続の為に、多様性を最重要と認識するように学習させてある。だから人類にある程度の自由を与え、その上で全てを視ているの」
何とはなしに天を仰ぎ見る。もちろんそこに神は居らず、木目調の天井しか見えない。
「本当に全部?」
「全部。住所・年齢・性別・遺伝子情報から通学路や行きつけのお店、病歴や服用している薬、仲の良い男子の名前、嫌いな教師、子どもの頃にやった失敗、ノートに書いた自作キャラの設定も」
「え?」
「最後のは半分冗談だけど」と付け加えつつ、ネブルは神妙な面持ちでストローに口を付けている。薄い唇に自ずと目線が吸い寄せられる。あれが私の胸に触れたのだ。
「ネブルは育性会に入って、こういうことを知ったの?」
「私はちょっと特殊」と、ストローを口の端に咥えたまま彼女は答える。
「特殊?」
「うん。ここではそれ以上言えない。ごめんね」
ネブルは再び画面に目を落として、端末をいじり始めた。「まぁ、私が今喋ったことは他の専門家もずっと警鐘を鳴らしているから、調べればわかるよ」
育性会に限らず、世界の行く末に懸念を抱いている者はまだまだ居る。もっとも、年々なりを潜めるようになり、一般人からはオカルトの領域に片足が踏み込んでいるかのような扱いを受けている。
「都市伝説だと思って聞いてほしいんだけど」カップが置かれ、トレイの上に結露が滴る。
「NUKEの開発だって単なる乳首破壊だけじゃなくて、もっと深い思し召しがあったんじゃないかって言われているんだよ」
「例えば?」
「ナノマシンを使ったインターフェース導入の布石説が有力だね。実際、NUKEで放出されたナノマシンは人類の遺伝子に組み込まれて、乳首がない人の体内には今も残り続けているからね。そのナノマシンは何も乳首を喰うだけじゃなくて情報処理機能も備えていて、肉体そのものを情報デバイスとして使えるようにするんだって。世界の管理者にとってはこんなに都合が良い話はないよね。個人情報の取得も特定も筒抜けにできて、下手したら体を乗っ取ることだってできるかもしれないんだから」
「何だかSFめいた話だね」
真に受けないようにと前置きしたにも関わらず、ネブルの語り口には実感がこもっていた。
「私もそう思うよ。それを現実にしないように私達は……いや、小難しい話はこの辺にして普通に遊ぼっか」
ズゾゾ……とわざとらしく音を鳴らして、彼女はカロリーの塊を飲み干した。リップで色付いたストローが力なく項垂れ、カップの底にはホイップクリームの残滓がへばりついていた。
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