第4話


 二人であちこち遊び回り、夕刻を迎えようという頃、黒雲が赤い陽光を遮り始めた。暗澹とした空の下、繁華街にネオンが一つまた一つと灯り出す。

「降りそうだね」

「うん……」

 別れの時を目前に迎え、私達の口数は少なくなっていた。伝えたいことは山ほどあるはずなのに、それを言葉にできない。

 今日、一緒に過ごして理解した。ネブルが戦っている相手はDummyではない。彼女が相対しているのは無意識に人を蝕む、例えるならばまさにNUKEのような、知覚できない「何か」だ。変質していく人の営みの内に潜み、世界に無自覚な痛みを与えるモノ……。そんな得体が掴めない存在に対峙しようとしているのだ。世界に立ちこめる雲霧を晴らす為に、彼女は風を起こそうとあがいている。その意志をどう受け止めるべきなのか、私は答えを見つけられないでいた。

「ねぇ、ネブル。あなたにとってこの世界は――」

「世界を創り給うた神は人に愛を惜しみなく注いだ。じゃあ、あの人造の神は私達に何を与えたと思う?」

 ――何も与えていない。むしろ奪っているんだよ。

 暗雲はますます空に満ち、やがてコンクリートに黒点が打ち込まれ始めた。斑点は次々と増え、地に染みが広がっていく。雨は瞬く間に桶をひっくり返したかのような豪雨となった。人の群れは散り散りと、近くの建物へ目掛けて各々往来から掃けてゆく。

「スウちゃんにとってはありふれた風景で、少し窮屈な程度かもしれない。ただ、私には……!」

「今まではたしかにそうだった。けど、私も知ってしまった。日常の下に隠された犠牲を、いずれ訪れる更なる危機を……。それに対するあなた達の行いが善なのか悪なのか、すぐには答えは出せないけど……だから思うの。あなたの側にいたい」

「私も本当はもっとスウちゃんと居たいけど、それは無理だよ」

 夕立はなお雨脚を激しくし、私達の全身に降り注ぐ。ブラの肩紐が透け、着衣も肌に張り付いて体のラインが際立っている。

「スウちゃんはこっちに来ちゃいけない」

「あれこれ教えておいて、それはないよ……」

 駅やカフェの一幕だけじゃない。彼女は街のあらゆる場所で「変わりつつあるもの」を教えてくれた。コンドームの代わりに避妊薬と中絶剤がコンビニに並び、去勢手術が美容整形や脱毛と並んで広告されているのも私達が生まれてからの変化だとか。他にも婚活アプリで遺伝子マッチングという試みも行われていたり、子育て認可制が導入された自治体では、認可された世帯は手厚い補助を受けられることから、それを求める現役世代が続々と集まってきているとか、変わっていないように見えて、すでに生活に馴染んでいる事実を教えてくれた。私を育性会に勧誘する為ではないとしたら、何の為にこんな話をしたのだろう。

「違うよ」とネブルは首を振る。「勧誘の為にこんな話をしたんじゃない」

 ――じゃあどうして?

 私が声にするよりも早く、彼女は真摯な眼差しを向けて思いを告げた。

「ただ、知っておいて欲しかったの。友達として。私が何を望み、どう生きようとしているのかを」

「ちょっと重いかな?」と少女は少し気まずそうに笑みを見せる。私は俯きがちに「そんなことない」と一言だけ返す。そうか。知ってほしかったのか。

 ――だったら。

「私にもう一つ教えてほしいことがあるの」

「ん?」

 私はきょとんとしているネブルの手を引いて、建物の陰から陰へと渡った。

「え? ちょっと……? スウちゃん!?」

 ずぶ濡れになりながら辿り着いた先はかなり古ぼけたラブホテルだった。塗装は剥げており、外壁の照明も一つ二つ電灯が切れている。コンクリートの劣化具合からもかなり年季が入っているのが見て取れる。料金も格安で私達でも手軽に出せる金額だ。

「ここなら成人認証もいらない」

 設備投資をしていないに等しいせいか、出入り口には認証用の端末が設置されていなかった。

「よくこんなとこ見つけたね……」

「ここ、昔から地元では有名なんだよ。その……ボロすぎて」

「たしかに。廃墟かと思った」

 各地を渡り歩いているネブルには馴染みが薄い。知らなくとも当然だ。「それで」と、ネブルは体を密着させて挑発的に問う。

「私に何を教えてほしいの?」

「とりあえず部屋選んでシャワー浴びよっか。風邪引いちゃう」

「だね」

 恋人同士のようにいちゃつきながら迷う訳でもなく、適当な空室で即決し、部屋に急ぐ。今はときめきよりもべしゃべしゃに濡れた体を一刻も早く温めたい気持ちの方が勝っていた。

「先に浴びてきなよ」

「一緒に入ろうよぉー」

「良いから」とネブルを浴室へ押し込み、冷えた体をソファに沈み込ませる。遊び回った疲労からにわかに眠気が湧いてきて、うつらうつらと意識が遠のく……。



 ――スウちゃん。寝てるの?

「…………ごくり」

「起きてる起きてる」

 起き上がった私の前に、ガウンを着た小悪魔がいた。頭頂から暖気が昇り、濡れた髪からは色香を芬々ふんぷんと漂わせている一方、紅潮した顔は秘め事を知らぬ乙女のようで、そのアンバランスさが醸し出す危うい雰囲気が私にはこの上なく魅力的に映った。

「お待たせ。寒いでしょ? 早く入って来なよ」

 呆ける私をよそに、ネブルは慣れた手つきでリモコンを操作し、画面上で勃発している男女の営みを冷めた眼で鑑賞し始めた。

「何見てるの?」

 ネブルの口から淫猥な単語が目白押しの文章が告げられる。どうやら作品のタイトルのことらしいが、そういう答えを求めていた訳ではない。目線は画面に釘付けだが、どことなく気もそぞろに見受けられ、彼女は彼女でこれからの「事」を意識しているような気がした。

 水気を含んだ衣類をさっさと脱ぎ散らし、熱水に肌を晒している内に、頭の中は少しずつ冷静さを取り戻していた。そして、今更ながら後先考えない行動を取ってしまったものだと若干後悔した。

 ――私、これからあの子とするんだ。

 古今、同性同士の行為は珍しいことではない。歴史上でも存在していたし、今の社会でも少数派でありながらも受け入れられている。しかし、実際に当事者となれば話は別だ。私は自分が同性愛者だと思っていないし、ネブルに対しても恋愛感情よりも親愛の情を以て接している……と認識している。なのに何故――。

「どうして私の体はあの子とそうすることを望んでいるの?」

 彼女に抱かれる妄想をして自慰をした。お風呂上がりの彼女を見た時、胸が疼いた。早々にビデオを観始めた時、身の奥から冷やりとした感覚が走った。今も「私を見て」と、絡みつくような熱気が心の奥で渦巻いている。

 性なる衝動の行き場を求めているだけなのに、あの子はそれを受け止めてくれようとしている。どうして? 何故? 尽きぬ疑問は湯気と共に浮かんでは消えゆくばかり。

 結局、覚悟が定まらぬままにシャワーを止め、脱衣所でガウンを手に取って固まる。

「これ、裸に着るんだよね……?」

 当然、下着は替えがなく、雨で濡れたままだ。「ええい、ままよ!」と勢い任せに裸身に纏い、浴室を出る。

「お待たせー」

 何気ない一言すら上擦っているのが自分でもわかる。お相手はすでに布団を被り、無邪気にこちらを誘っている。

「はやくおいでー。ボロい割りにここの布団、ふかふかだよ」

 ネブルの表情は見えないけど、彼女もあえてあどけない雰囲気を振り撒いているのがわかる。ベッドに腰かけ、私は胸奥に抱えたわだかまりをネブルへ真っすぐ投げかけた。

「ねえ、ネブル。嫌じゃないの?」

「何が?」

「私と…………こういうこと、するのが」

 背後でもぞりと寝返りをうったのがわかった。「んー」と考え込む声が聞こえる。彼女がどんな表情をしているのか、見るのが怖い。

「実はさ、私も人とするのは初めてなんだよね」

「……えっ?」

 それじゃ私を助けてくれた時のあれは? 触れた相手を忽ちに骨抜きにしてしまう、まやかしのような性技は何だったのか。

「あれはね、私にしかできない特別な技……。そして、それはスウちゃんには効かない」

「それってどうして――」

「私が育性会にいる事情、それと関係しているの」

「それって教えられないって言ってた……」

 振り向いた私に対して彼女は背を向けたまま、布団の中で身を縮こませている。「あそこだと周りに聞かれている可能性があったから」

「誰にも教えちゃいけないことなんだ。仲間にも」と、少女は寂しそうに呟いた。

「だけど私はね、私は……」

「良いよ。言いたくないなら」

 制する私にネブルは「でも!」と食い下がろうとする。私は布団に潜り込んで、震える背をただただ優しく抱き締めた。

「良いんだよ」

「…………」

 無言の間が続く。じっと抱き止めていると、テレビから流れてくる女優の嬌声に混じって、か細いすすり泣きが漏れ聞こえ始めた。

 外の夕立はもう止んでいるようだった。



「いやー恥ずかしい所を見せちゃったな」

「これからもっと恥ずかしいとこ見せるのに?」とからかってあげると、ネブルは「もー!」とこちらにじゃれついてきた。張り詰めていた緊張が切れたようで、ありのままの彼女を見られていると思えた。揉み合って互いに息を切らしながらも、自ずと笑いが溢れてきて胸が苦しい。でも、そうできることが嬉しい朗らかな苦しさがベッドの中に満ちている。

 一しきり笑い合って一寸の落ち着きが私達の間に訪れる。寝そべったまま向き合い、ネブルの顔を見つめると、照れと愛着が同居した浮ついた表情をしている。きっと私も同じ顔をしている。

「ねぇ、ネブル」

「なに? スウちゃん」

「改めて聞くけど嫌じゃないよね?」

「聞かなきゃわからない?」

「ううん。そうじゃなくて、これからすることって……好きな人とするものじゃない?」

「……そうだね。社会の常識に照らし合わせれば」

「だからさ……言って良い?」

 ――好き、って。

 愛の熱閃が私からネブルへとほとばしる。時が止まったかのように少女はぴたりと固まったかと思ったら、するりと身を摺り寄せ――。

「私も好きだよ」

 唇に柔らかな稲妻が落ちた。触覚が脳に事実を伝えた頃には、彼女は既に私の耳元で言葉を囁こうとしていた。

「スウちゃんに教えてあげるね……いや、スウちゃんからも私に教えて」

 ――性の悦びエクスタシーを。

 あるがままの個と個は絡まり合い結び合い睦み合い、白き性愛の繭を育む。宵月の光を吸いながら、それは悦びの歌を響かせ合う。そうして、私達の最初で最後の恋は終わってゆく。


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