第2話


 ――ねぶるよ。

「え? どこを?」と、思わず身構えた私に少女はプッと噴き出した。「違う違う。名前よ。私の名前はネブル」

 人目に付かない旧校舎の陰で、私達はようやくまともに言葉を交わした。放課後の喧騒は遠くに聞こえ、先の騒ぎとは無縁のように感じた。

「同じクラスなのに、覚えていないなんてひどいよ。スウちゃん」

 いつも教室の片隅で本を読んでいた子なのは何となく印象に残っている。でも、今まで特に関わりがなかった上に、教室で見ていた彼女と今目の前にいる彼女とでは雰囲気が全く一致しない。

「じゃあ、覚えてもらえるように大胆なことしちゃおうかな?」

「ちょっとごめんね」とネブルはズイっと私に身を寄せると、まだ乱れたままの私の着衣をまくり上げた。そのまま拒否する間もなく片乳のニップレスが剥がし取られ……次の瞬間、胸の先端にぬるっとした感覚が走った。不思議と嫌な感じはしない。

「あぅっ……! 何を……」

 胸から顔を離して彼女は「うん。やっぱり」と呟いた。乳房の中に没していた突起がぴょこんと夕日の下に晒される。

「あっ……!」

 私は咄嗟にネブルを突き飛ばし、胸を隠した。先の恐怖が甦り、目の奥がカッと熱くなる。顔を背ける私に対し、彼女は申し訳なさそうに声をかける。

「あー……ごめん。本当なのか確認しておきたかったんだ」

「是が非でも私がポチだって知りたかったの? もし、そうじゃなかったらどうするつもりだったの?」

「怒るのもわかるよ。でもね、本当に知りたかったの……。だって仲間と逢えたと思えたから」

 そう告げると、少女は突如ブラウスのボタンを外し始めた。「ちょっと……!」と私が制止するのも厭わず、彼女は上衣をはだけさせると……。

「あなた……ブラしてるの?」

 キャミソールとは別の弧線が肩にかかっている。

 乳首の消失は下着の文化に変化をもたらした。ブラなしで垂れの補正も可能になり、乳首と布の擦れを気にせずにインナーを選べる今では、ブラは無用の長物と化しており、線が見えれば「ポチ」扱いされる為にほぼ廃れている。

 カップ付きのインナーでは隙間から乳首が見える可能性があるので、私はニップレスもしている。しかし、彼女は堂々とブラをしている。

「ねぇ……吸って」

 私はネブルに抱き寄せられ、強引にその胸に頭を埋めさせられる。「ここ」と囁かれて、唇にしこりのような固さを感じる。トクントクンと早鳴る鼓動が聞こえる。彼女はもう一度「吸って」と柔らかな声音で囀った。

 言われるがままに吸う……吸う……。彼女は小さく体を震わし、呻いた。「もういいよ」と離されて、唇から糸が垂れる。露わになった胸には、私と同じ薄桃色の突起が張り出していた。

「ね? 同じでしょ?」

「……うん」

 初めてまじまじと見る他人の乳首は小粒でも凛としていて、思わず「綺麗だ」と呟いてしまった。

「スウちゃんのも綺麗だよ」

「え? あ、ありがとう……」

 ――他人から乳首を褒められるなんて……!

 初めての経験に体がぽっと熱くなる。

「ほら、風邪引いちゃうから、もう服着なよ?」

 お互いにはだけた衣服を整えつつ、ネブルはぽつりと言葉を漏らした。

「本当はね……こんな実力行使をするつもりなかったんだ」

「……そうなんだ。たしかに大人しくて物静かだと思っていたからびっくりしたよ」

 彼女の気持ちもわかる。世の例に漏れず、「反性」の風は先のツィネルを筆頭にこの学校にも吹き荒れている。それに抗おうと一歩踏み出すのは並大抵の覚悟では為し得ない。

「それもあるけど、動けば組織に危険が及ぶから」

「組織って……?」

「私の仲間。吹けば飛ぶような小さな存在の集まり。Dummyの神託に背く馬鹿げた連中」

 ――育性解放同盟。「育性会」だ。

「ひゃっ!?」

「……いたのね」

 校舎の陰から教員らしき若い男が現れる。びくついた私と裏腹にネブルはいたって冷静だった。どうやら顔見知り、といっても生徒と教員の関係ではないのは確かだ。

「お前が騒ぎを起こしたって聞いたんでな」

「騒ぎという程でもないでしょう?」

 学校の敷地内は禁煙だというのに、男は躊躇いなく煙草に火を点けた。煙を吹きつつ、呆れたように顔をしかめる。

「今回の件は性的いじめの事案として教員間で共有した。あまり大事にせず、ポチ云々の件も穏便に済ます方向でな。お前が助けに入ったことも、その子が被害者ってことも内密になった」

 当事者のあずかり知らない所で事態は収拾したらしい。「そう……。それならスウちゃんが被害者として担がれることはなさそうだね」と、ネブルはほっと一息吐いた。しかし、男は依然として渋い表情のままである。

「ただ、今回の件で目聡い奴は勘付いたようだ。パーソナルIDを書き換えて非常勤として潜っていたが……俺はもう潮時だな。お前はどうする?」

「私は当初の予定通り、もう少しここを満喫するよ。夏休みも近いし、今フけるのは不自然だもの」

「そうか……」

「勝手な行動を取ったのに、何も言わないの?」

「……友達、欲しかったんだろ?」

「…………」

「夏休みが終わったら迎えに来る」

 男は吸い殻をアスファルトの隙間にねじ込み、そのまま立ち去った。良からぬ一部始終を目にしてしまった気がするが、状況が飲み込めない。私にわかるのはネブルが「育性会」と呼ばれるアウトローな組織の一員で、私を助けるのにその力を行使したの二点のみだった。

「ネブル……あなたは……」

「――性管理社会」

「その時代が来つつあるの」と彼女は確かな口調で告げる。「NUKEの投下って何が目的だったかわかる?」

「えっと……人口の抑制だよね?」

「そう、じゃあ人口抑制の目的は?」

「それは……食料不足とか環境汚染とか色々」

「だね。世界の問題の原因は人間が増えすぎているせい。だから口減らしをしていきましょう。それも乱暴な方法で急激に減らしたら大変だから平和的かつ漸次的に」

 故にNUKEが投下され、そして人類は順調に数を減らしている。ただ、それだけでは終わっていないと彼女は語る。

「この十五年間、統治会議の要請を受け、各国はどこもかしこも同じような法制度を成立させてきた。憲法の条文と矛盾して法改正できないからって、そこから根こそぎ変えた国だってある。パーソナルIDシステムの構築、子作り認可制導入及び育児補助制度の拡充、遺伝子情報登録制度、性犯罪の厳罰化、表現物の規制ガイドライン整備、クリエイターの補助制度等々……。条文や制度の内容に多少差異はあれど、皆が同じ方向に向いて動いている……。それだけDummyの予測精度は絶対的で、それがもたらす公益も圧倒的だから切り捨てられる者の声なんて、大波にかき消されるさざ波のようなものなの。もしかしたら私達のような反抗勢力が現れることだって、掌の上で踊らされているだけなのかもしれない……」

 人口を減らして終わりではない。種の安定した存続の為に出生にも管理の手が伸びつつあるという。そして、いずれは性に関わる全てから自由が失われると……。

「あなたはどうして戦えるの?」

 話を聞く限り、どう考えても勝ち目がない戦いだ。神と戦っているようなものだろう。

 校舎の壁にもたれながら、ネブルは伏し目がちにブラの内のさらに内側に秘めたる思いを言葉として紡ぐ。

「助けたいのに助けられない。今までそんな子をたくさん見てきた。NUKEのおかげで世界に恒久的な平和が築かれつつある。でも、NUKEのせいで不幸になっている人も大勢いるの。私はこれを「淘汰」だなんて言葉で片付けたくなかった」

 虐げられる同類を眼にしても、何もできずにただ身を隠すしかなかったのは私も同じだ。しかし、彼女はそこから踏み出して戦うことを選んだ。私にはとても真似できない。

「だから私を助けてくれたの?」

「目の届く範囲は難しくても、手の届く範囲ならどうにかなると思ったから」

 あんなに俊敏な身のこなしができて、多勢を物ともしない強さがあるのに、カラリと笑う彼女の言葉からは無力感が滲んでいた。

「目の届く範囲」にはもっと痛ましい現実が広がっている。言外にそう語りかけてくるような哀しい眼をしていた。

 だから私はせめて「……ありがとう」と心の底から感謝を伝えた。慰めにもならないかもしれないけど、現にあなたに助けられた者がいるのだと。

「スウちゃんは優しいね」とネブルはまた笑った。私は「ネブルの方が優しいよ」と笑い返した。

 平らになりつつある世界の陰で、笑いは長くこだましていた。


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