N・U・K・E 平らな世界と陥没した私達の性愛(モザ有版)
壬生 葵
第1話
今から十五年前、世界は乳首を失った。
北極と南極で起爆されたNUKEは搭載されたナノマシンの機能を以て、人類の九割九分九厘に痛みすら感じさせずに乳首を消失させた。さらに特定の遺伝子情報に干渉し、子々孫々にも渡って乳首を喪失させるに至った。乳首を失った親から生まれた子は生まれつき乳首を持っておらず、胸に突起がない状態でこの世に生を受ける。
乳首を持たぬことが常識となった世界では何が起こっているのか。私の身の回りでは大きく二つの変化が起こっている。
一つは性感帯が一か所消失したことにより、性的関心の希薄化が進みつつあることだ。たった一か所の性感帯と言えど、影響は絶大であった。乳首で感じることを忘れた人々は性への関心も失い、性行為に消極的な姿勢を示すようになった。
もう一つは――。
「ねぇ、スウ! これ見てよ」
隣席のカムが差し出した端末にとある記事が映し出されていた。
――衝撃! 人気絶頂のインフルエンサー「ハジキちゃんねる」に乳首あり疑惑!?
「これマジなのかな? ハジキちゃんが「ポチ」だったら……」
「ポチ」とは乳首の突起そのもの、あるいは衣服からそれが浮かび上がっていることを揶揄した言葉の一つである。乳首がある人をそう呼んでいる。そう、もう一つの変化とは乳首持ちに対する差別と偏見だ。突如として乳首を失った人類は行き場のない喪失感を「持つ者」への嫌悪に変換し、少数派となった乳首持ちの人々へそれを向けるようになった。Dummyは急激な人口削減は更なる混乱を引き起こすとして、緩やかな口減らし策としてNUKEを発案した。しかし、それが新たな歪みを生み出している。
「本当なのかな? でも、たとえそれでも応援するのがファンなんじゃない?」
「えーやだよー生理的に無理。この前、テレビで動物の赤ちゃんがお母さんのお乳を吸っているのを見たんだけど、あれと同じのが付いているってことでしょ? 動物みたいに直接胸に口を付けるなんて、ひと昔前の人はよくそんなことできたよね」
「……うん。そうだね」
私達の世代の大半は母親の乳を吸わずに育ってきた。吸い付く乳首がないのだから仕方がない。搾乳器具で採取された母乳に粉末状の栄養補完食を溶かし込み、スポイトで投与するのが今の一般的な授乳法だ。「ママのおっぱいでも吸っているんだな」という煽り文句には、私達が生きる社会では別の意味合いも含まれている。
「それに乳首ってさ、触られると勝手に体がビクビクしちゃうらしいよ? それ怖くない? 自分の意思とは関係なく、性欲が湧いてきて体が反応するんだって……。理性で抑えられないって動物と一緒じゃん。ハジキちゃんが乳首でよがっている所を想像したらもう無理!」
「ふーん……」
「ツィネル先輩が「反性会」の会員だから色々聞くんだよね。今週、その会合に誘われているんだけど、スウもどう?」
「ごめん……。私は良いかな」
「反性会」はNUKE投下以前から存在する、福祉法人を前身とした民間団体だ。性行為なしに人工授精で子を産める現代において、性の在り方を見つめ直すことを目的としていて、当初は性犯罪加害者の更生支援及び生活管理、被害者へのケアや若年層への正しい性知識の振興等を行っていた真っ当な団体だった。しかし、NUKE投下以後、性的なものを徹底的に排斥する極端な思想に染まり、往時の見る影もない。ただ、性への関心が薄まるどころか嫌悪する人が増えつつある今の社会において、この団体を支持する人は年々増加しており、政財界にも影響を及ぼしている。
彼女の言説が下世話な風説の一種ではなく、一般的な論調としてまかり通っているのがこの世界の現実だ。乳首は人類から完全に消失した訳ではない。ある身体的形質を持つ人々はNUKEの影響を逃れ、今もなお乳首をその胸に携えている。しかし、皆このような偏見と抑圧に晒されぬよう、肉体に宿る突起物の存在をひた隠しにしている。
何故、そう言えるのか……? 私もその一人だからだ。
「ただいまー」
学校から帰宅し、小さく息を吐く。「良かった。今日もバレなかった」と……。
自室に至った私は制服を脱ぎ捨て、胸の先端に貼ったシリコン製のシールを剥がすと、薄桃色の痣のような部位が姿を現した。ブラはしていない。ブラは「ポチ」の
私の母は当時の成人女性の十人に一人いたとされる陥没乳首で、私もそれを受け継いでいる。そのおかげで幼い頃の私は周りの子どもと違って、母の乳房を吸って吸って吸い倒して育った。
陥没乳首はNUKEの作用を受けなかった。ナノマシンが乳房の中に没した乳首を対象と認識しなかったのだ。
ただ、統合会議にとってこれは不幸中の幸いとも言える。ナノマシンが陥没乳首にも機能を発揮し、壊死した乳首が乳房の中に残っていたら多くの人々に健康被害が生じていたからだ。人々の間で不満が募り、NUKEの使用に疑念が湧いていたら、Dummyが下した判断そのものの信頼が揺らいでいた。
が、現実はそうではない。少数派となった乳首を持つ人々は息を潜めて、社会に迎合して暮らす他ない。
この暮らしが一生続くのならば、いっそ乳首を切除してしまおうか。望んで生まれ持った訳じゃないのに、どうしてこうも息苦しくしていなければならないのか。チリチリと心が削り取られていくような日々に、私は「壁」を感じていた。
――スウ、あんた乳首あるでしょ?
体育の授業が終わって着替えに向かおうとしている所、クラスメイトに呼び止められて全身から血の気が引いた。彼女らは入学当初からクラスで幅を利かせてきたグループだ。例のツィネル先輩とも繋がりがある。
私は努めて平静を装って「ある訳ないじゃん」と答えたが、相手はそれも見越していた。
「授業の前にさ、インナーの隙間から見えたんだよ。ニップレスしてるでしょ?」
「…………やだなー。最近、ちょっと出来物ができちゃったからケアしてるだけだよ」
「ふーん」と訝しむ彼女らをよそに、私は足早にその場を離れる。しかし、一度向けられた疑いの眼はそう易々と晴れやしなかった。着替えを済ませて、教室に戻った私を待っていたのは、疑念を孕む生温い視線だった。
(あの子、乳首あるんじゃないかって……)
(そういえば中学の時、宿泊行事を休んでいたような……)
(それってお風呂でポチバレするからじゃない?)
人の口に戸は立たない。噂はすでにクラス中に広まっていた。いや、もう学年中に広まっていることだろう。
――ねぇ、今日の放課後良いかな?
呆然と立ち尽くす私に渡された魔女裁判の令状、今までの被告の末路は噂程度に知っている。心を焼かれるような辱しめに遭うのは容易に想像できた。誰も救ってくれやしない。世界がそれを赦しているから。
打つ手なく無情にも放課後はやってきた。幾人のクラスメイトに脇を固められ、私は半強制的に空き教室へ連れられた。
「ツィネル先輩! 連れてきました」
「ここに呼ばれた理由、わかる?」
リーダー格と思しき上級生の女子が高圧的に言い寄る。彼女が「反性会」会員のツィネルらしい。カムが虎の威を狩る狐の如く、傍に侍っている。なるほど、誘いを袖にしたことが災いしたらしい。思えばあの時から鎌をかけられていたのだろう。
「……大よそは」
「じゃあ脱ぎな。後ろめたいことがなかったらできるでしょ?」
相手はぶっきらぼうな物言いでこちらには取り付く島もない。間違いでも関係ない、ただの憂さ晴らしのようにも見えた。大方、虫の居所が悪い所に、ちょうどよく私の存在が目に付いたのだろう。
「やだよ。同性相手でも裸は恥ずかしいし」
「ふうん……。そんなに嫌ならうちらで脱がしてやるよ」
待っていましたと言わんばかりに取り巻きが私を羽交い絞めにし、制服のボタンに手をかけようとするので、必死に抵抗した。
「や、やめてっ!」
「ほらっ! 抵抗するってことはやっぱ「イボ付き」なんだね!」
スカートが捲れようが構わず必死に体をよじらせ、腕を振りほどこうとあがくが、それも及ばず。ブラウスのボタンが一つまた一つと外されいく。処刑人達は「ほーらもうすぐ出ちゃうよー」と嬉々として、はだけた胸元に無遠慮に手を差し入れ、まさぐり、インナーをたくし上げて罪の証を面前に曝け出そうとする。
――嫌だ! やめろ!
息も絶え絶えで叫びも声にならない。腹の辺りまで素肌が露わになり、間もなく胸に差し掛かろうという絶望の瞬間、勢いよく教室のドアが開け放たれた。
「誰!?」
扉の前に立つ少女はその問いに答えず、つかつかと黙ってこちらに歩み寄る。そして携帯のディスプレイを示して一言「撮ってるよ」と告げた。ツィネルは意を解しかねて「は? それが?」と悪びれずに首を傾げる。まるで自分達は正義の行いをしているに過ぎないと言いたげだ。
「性を斥ける反性会の会員が肩書を利用して性的リンチをしている……と公になったら、どうなるかわかるでしょう?」
「何のことやら? リンチじゃないよ。教育さ。あんた知らないの? この子は正真正銘イボ付きのポチだよ。消えてなきゃならない性感帯を、未だ体にくっつけて悦んでる旧い人間をまともにしてあげようってのがどうして罪になるのかしら?」
「教育……。そう……なら私からあなたに教えてあげるわ」
――
少女は素早い身のこなしで即座にツィネルに詰め寄ると、その耳を柔らかく食んで甘く息を吹きかけた。ツィネルは瞬く間に腰から砕け落ちる。一体、何をされたのか理解が追い付いていないようで、そのまま立ち上がることができないでいた。
(えっ? あの子、何をしたの!?)私も眼前で起こった現象に目を白黒させた。
次に少女はうなだれる女の後頭部からうなじにかけてツゥーっと指を滑らせると、その体が小刻みに跳ねた。意識はまだらのようでよだれを垂らしている。
「さぁ、これを見てもまだやる気?」
少女の不敵な笑みにたじろぎ、取り巻き達は放心状態のリーダーを置いたまま、泡を食って教室から出ていった。解放された私も何が何やら状況が掴めない。
「大丈夫? 立てる?」
差し出された手の向こうには温もりに満ちた微笑み。私は震えが残る手を伸ばし、少女に支えられてどうにか立ち上がった。
「ありがとう。えっと……」
「とりあえずまずはここから離れましょう」
繋いだ手をより強く握って彼女は駆け出した。肩が抜けそうになるくらい力強く引っ張られながら、私もその細い背中についていく。
「壁」が崩れていくような気がした。
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