第4話 癒しのカクテル 後編
俺は今、猛烈に気分が上がらなかった。理由はもちろん、絶対にやりたくないと思っていた新人の教育係にいつの間にか任命されていたからだ。厳密に言うと、俺が前回途中で抜け出した新人歓迎会で詳しい説明はあったらしいのだが、説明がなされていたであろう時刻は、俺は「LUNA」にいたので知る由もない。一縷の望みをかけて、上司に辞退を申し出てみたが、逆に「どうか頼む」とまで言われてしまう始末だった。俺が担当することになった十六夜はというと、せっせと俺のデスクの隣に道具などを運び入れている。正直必要以上に関わる気にはなれないが、一応教育係となると明確に上司となるわけだし、放っておく気にもなれなかった。
「十六夜くん、よければ何か手伝おうか?」
「え!?よろしいんですか!すごくありがたいですが流石に川村さんのお仕事の邪魔をするのは…」
十六夜はどうやら俺に仕事を放置させて自分を手伝わせるのは気が引けると考えているのだろう。周りへの気配りや、マナーがしっかりしていることがこの発言だけで見て取れた。
「心配は無用だ。今日の仕事は大方一段落しているし、君の荷物の搬入を少し手伝ったところで、残りの仕事に支障はきたさんよ」
「は、はい…でも少しでもお仕事が早く終わったほうが川村さん、早く帰れるじゃないですか…だから私のせいで川村さんのお時間を取らせてしまうのは…」
最初に話しかけられた時には感じなかったが、意外と緊張しているのだろう。もしくは、俺のしゃべり方のせいか変に気を使わせてしまっているのかもしれない。仕方がないので、俺は十六夜に「少しだけ耳を貸してくれたまえ」といった。十六夜は、疑問を浮かべながら俺に耳を近づけた。
「仕事詰めで疲れてきたのだよ。このまま進めても定時の前に終わってしまいそうだし…頼むから私に休憩の時間をくれまいかね?」
俺がこう言うと、言葉の意味を察したのだろう十六夜はクスっと笑った。
「はい!わかりました。ではお言葉に甘えさせていただいて…よろしくお願いします!ありがとうございます、川村さん!」
「なに、それを言うのはこちらのセリフだよ。最近座りっぱなしだと肩や腰が凝るものでね。年波には参ったものだ」
私はあえてわざとらしく自分の肩と腰にそれぞれ手を当てながら椅子から立ち上がった。その様子を見て、十六夜はまた笑った。
「年波って…川村さんまだ20代じゃないですか!」
「いやいや、とはいえ大学や高校で部活動をしていたころに比べたら体力も衰えてしまったものだよ。十六夜くんのようにやる気と気力にあふれている人には特に私は運動系の活動を続けていくべきだとつくづく思うよ」
実際、俺の経験上社会人になったからと言って、それまでやってきたスポーツや、武道はやめるべきではない。あくまで俺の持論の域を出ないのだが、とにかく体力が落ちてしまい、大変になる。
「そうですね…。私も何かスポーツはまだやっておきたいんですけど…。川村さんは昔何をなさっていたんですか?」
「私は…中高まで弓道をやっていたが大学から薙刀と合気道を兼部していたかな…あの頃できていた技術も、今はもうできまいなぁ…十六夜くんは今までどんなことをやったことがあるんだね?」
俺が問うと、十六夜の顔は異様に明るかった。
「実は私も、大学生時代に合気道をやったことがあるんですよ!中高はバレーボールでしたけど…。ぜひ今度胸を貸してくださいよ川村さん!会社の体育館でも借りて!」
「い、いや構いはしないが…私は長いこと稽古はしていないのだが…」
これは反射的に出てしまった出任せだ。社会人になってからも、合気だけは俺は週に1・2度、道場に行くようにしている。続けているとはいえ、つい先日まで部活としてやっていた人間の相手が務まる自信がなかったのだ。
「いえいえ!私もまだまだ未熟ですから先輩としての意見も聞かせていただきたいのです!」
十六夜の勢いに負けて、俺は思わず実は道場に通い続けていることを白状してしまった。そのうえ、「まぁそのうちに」というあいまいな言葉ながら、十六夜との稽古を了承してしまった。
「楽しみです!それに、初日から川村さんのことをいろいろ知れてうれしいです!」
「不思議なことを言うものだね君は…。私のようなオヤジのことを知ったところで、何のメリットもないと思うが?」
俺の問いに対して、十六夜は首を傾けた。
「いえいえ、メリットとかではなく、純粋に川村さんがどういう人なのかが気になって聞いているだけなので損得じゃないんですよ。強いてメリットを挙げるなら、川村さんと話すの、なんだか私は楽しいです!」
十六夜の返答を聞いて、俺は思わず吹き出した。こいつは本当に変わったやつだ。しかし、こいつの教育係にならなければ、俺はここまで笑えなかっただろう。入社してから今まで、仕事時間中にこんなに笑えたのは初めてだ。触れていなかったが、十六夜の荷物搬入のためにオフィスから出ていてよかった。俺のような奴が急にオフィス内で吹き出したら不自然だろう。もう少し愛想のいい奴なら話は別だろうが…。
「君はつくづく変わったやつだなぁ!面白い…。私に教えれることはあまりないと思うが、これから約1年精一杯君の教育係をさせてもらうよ」
「え?よくわかりませんが改めてよろしくお願いします?」
キョトンと首をかしげてから、十六夜はまた元の笑顔に戻った。とは言え、俺はまだこの時点では、十六夜と仕事以外で絡む気はあまりなかった。
…と思っていたのにその数時間後、俺は帰りのアーケード街を、十六夜と歩いていた。あの後、十六夜から「早速ですけどせっかくなのでお酒飲みに行きましょうよ!この前の歓迎会の時はご一緒して飲めなかったですから」と言われ、断りきらなかったのだ。しかも都合の悪いことに、明日は会社の都合で休みになっており、断る理由がなかった。そのうえ、「せっかくなら川村さんのおすすめのお店とか行きたいんですけど…」とかいうものだったので、マスターに連絡を入れて、{LUNA}に連れていくことにした。
「川村さんはこのあたりによく来るんですか?」
「家が近くでね。よくお世話になっているお店があるのだよ」
店に入ると、いつも通りマスターが「いらっしゃい」と言って出迎えてくれた。
「マスターこんばんわ、彼女が電話で伝えた俺の後輩だよ」
「は、初めまして…。十六夜優夢です」
「十六夜の嬢ちゃんね…。いらっしゃい、ゆっくりしてってくれ」
初めての人間にとっては一見そっけなく見えるマスターの対応だが、俺にはマスターの表情がほかの常連などに接するときとあまり変わらないように見えた。
「旦那、今日は何にする?」
「そうだねぇ…決め切らないからマスターに任せてもいいかい?」
俺がこう言うと、マスターは「あいよ」と言ってから、「嬢ちゃんは?」と聞いた。十六夜は少し、緊張した表情をしながら答えた。
「えっと、じゃあカシスオレンジをお願いします。」
「あいよ、旦那、嬢ちゃんのを先に出そうか?」
マスターの問いに、俺は「ぜひそうしてくれ」と答えた。その言葉の後に俺は、「ついでに今日のおすすめのつまみもつけてくれないか?」と付け加えた。マスターは相変わらずの表情で「あいよ」とだけ答えた。しばらくすると、十六夜のカクテルを作った。マスターが、俺の分のカクテルを作りながら、「嬢ちゃん魚は平気かい?」と聞いた。十六夜が、「お魚は好きですねぇ」と答えると、「そうか、ならよかった」とだけ答えた。
「マスター今日のつまみはアレかい?」
マスターが俺の分のカクテルを出してくれる時に俺は聞いた。
「そうだよ。アレでいいだろう?」
「もちろんだよ」
十六夜はまたキョトンとしていたが、俺にはマスターが何を考えているのか、なんとなくわかった。
しばらくすると、平皿に白い身と赤い身の刺身のようなものが盛られた皿をマスターが出してくれた。
「旦那、今日のは鯛とマグロので作ったよ」
「相変わらずうまそうだね。ありがたくいただくよ。十六夜くんも是非食べてみてくれたまえ」
十六夜はようやく謎が解けたような顔で、「はい!」と言って皿に箸をつけた。ゆっくりと味わい咀嚼してから「おいしい…!」とつぶやいた。
マスター自慢のカルパッチョは、常連でもなかなか食べれない人気メニューだ。もちろん、人気に釣り合うほどにうまい。先ほど、マスターが魚について十六夜に聞いたときに、俺はなんとなく察しがついていた。今夜の俺たちは本当に運がいいといえるだろう。俺も十六夜に続いて、箸をつけた。
「ハハッ…やっぱりマスターのつまみは格別だなぁ」
「ありがとよ旦那、それに嬢ちゃんも」
マスターは少しだけ嬉しそうな口調で、前の客の使ったらしきグラスを洗いながら言った。
マスターのカクテルとつまみで晩酌をすること約一時間。十六夜に変化が見られた。
「えへへ~…川村さぁん…今日は連れてきてくらさってありがとうございまふぅ…」
「十六夜くん平気かね?相当酔っているようだが…」
「あ~…気を付けてはいたんれすけろ…わらしほんとはあんまりお酒強くなくてぇ…」
呂律が回ってないところを見ると、どうやらほんとなようだし、相当出来上がっているようだ。
「しょうがねぇな…今日はもう店仕舞いにしようかねぇ…」
「いやぁいいよマスター!流石に申し訳ないから」
店仕舞いの札を出そうと出入口に行こうとするマスターを俺は呼び止めようとしたが、マスターは振り返って言った。
「旦那が連れてきたお客なら俺にとっちゃぁ大事な常連さんが連れてきた新規のお客だ。俺はそういうお客には最初こそ気持ちよく帰ってほしいだけさ。だから旦那は気にしなさんな。代わりと言っちゃぁなんだが、嬢ちゃんの酔いがさめるまでここに残って見守ってやってくんな」
マスターのまっすぐな眼光に俺はうなずいた。ちなみに当の十六夜本人は、酒に弱いカミングアウトをした直後に、カウンターに突っ伏して眠ってしまっていた。
マスターが店仕舞いの札を出してから、俺はマスターと二人で、座敷になっている席のところに座布団などを集め簡易的な横になれるスペースを作り、そこに十六夜を寝かせた。俺とマスターは、十六夜を起こさないように、静かに二人でこの前と同じように酒を酌み交わし、しばらく時間をつぶした。
すっかり朝日が差し込み始めたころ、十六夜は石弓にでもはじかれたかのように飛び起きた。俺とマスターは起きていたので、十六夜の起き方に少々驚いた。
「私…どれくらい寝ちゃってました?」
丸々一晩眠っていたことを伝えると、十六夜は「申し訳ございませんでしたぁ!!」と言ってその場に土下座の体制になった。慌てて俺とマスターが止めると、十六夜は本当に申し訳なさそうに顔を上げた。
「まぁ酒での失敗は誰にだってあるもんだし、酒を出した俺の注意不足だった…すまなかったな嬢ちゃん」
「十六夜くん、君の限界を知らなかったとはいえ私も読みが甘かった…すまなかったね…」
俺らがこう言うと、十六夜は「いえいえ!?お二人は何も悪くないです!自分が浅はかでした…本当に申し訳ありません…」と言った。
「ともかく、十六夜くんもそろそろ帰らねばなるまい?歩けるかね?」
俺が聞くと、十六夜は「はい、大丈夫です」とだけ答えた。
店を出るときに、俺はマスターにいつも通り「また来るよ」と言って出た。十六夜を家の近くまで送っていると、十六夜が口を開く。
「川村さん…昨日はほんとに申し訳ありませんでした…」
「もう過ぎたことだよ十六夜くん気にしなくて大丈夫だ」
やはりまだ気にしているのだろうか、俺のフォローの後に、十六夜がまた続けた。
「けど、あのお店で、川村さんと、マスターさんと飲むお酒、すごくおいしかったです…だから…川村さんがよければ、また連れて行ってくれませんか?もちろん次こそはマスターさんにも迷惑はかけないので…」
「あの店を気に入ってくれたのかね?」
俺は思わず十六夜に聞き返した。
「はい」
短く端的に十六夜は答えた。昨日まであまり個人的な付き合いをする気がなかった俺でも返事は決まっていた。
「それならばまた行こうか。マスターも嬢ちゃんならいつでも歓迎すると言ってくれていたしな」
「本当ですか!?では是非またお願いします!」
一気にまぶしいばかりの笑顔にようやく戻った十六夜がはつらつとした声で言った。
「あぁ、そのうちまた行くとしようか」
俺は十六夜の家の前に着いた時とほぼ同時に言った。そして、「とにかく今日はゆっくり休んで、明日からの仕事にまた備えたまえ」と付け加えた。十六夜は、素直に「はい!」と返事をすると、「ではまた明日からよろしくお願いします!」と付け加えて、家(マンション)に戻っていった。その様子を見届けてから、俺は自分の足をわが家の方向へと向けた。現在時刻は朝の7時頃だ。空にはうっすらと月が見えていた。水色の空にうっすらと浮かぶ月は、なんだか幻想的だった。
家に帰ったら何をしようか?とりあえず風呂に入るのは確定事項だが、そのあとは一度少し寝ようかと思う。
なんだか今日は、良い夢が見れそうな気がする。
後編 完
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