第3話 癒しのカクテル 前編
四月の末の宵は、まだ肌寒い。俺は、会社の飲み会を抜け出して家の近所のアーケード街を歩いていた。今の会社に勤めて5年、新入社員歓迎会に俺のようなアラサー平社員はお呼びじゃないだろう。もちろん参加費は払ってきているし、休み明けに会社に行ったところで文句を言う奴はいないだろう。そもそも、新人の中で俺のことを覚えている奴はいないだろうし、上司も俺に対して特に苦言を言うとは思えない。仕事はまじめにやってきているし、お得意先との会食や会議では大概俺が先導してやることが多い。自分で言うのもなんだが、それなりに会社には貢献している。上司との仲も基本的には良好で、仕事で文句を言われることはあまりない。たまには、会社内の集まりぐらいバックレていいだろう。若いのの有り余ったエネルギーについていける体ではないのだ。そんなことをしんみりと考えながら歩いていると、冷たい夜風がアーケードに吹き込んできた。俺は着ていたトレンチコートの前を手で押さえた。今夜は特別に冷える…。近くの居酒屋にでも行って体を温めるとともに、ついでに少しだけ飲み直したい。先の会でも、酔っているように見せていただけで、ビールを1,2杯ほど飲んだだけだったのだ。
(待てよ?そういえばあの店はこの時間でも開いてたはずだ)
俺は近くに行きつけの店があることを思い出して、その店に向かうことにした。5分ほど歩くと、その店は、アーケードの路地にひっそりとたたずんでいた。俺のお気に入りの店、「LUNA」というバーだ。中に入ると、俺より5つ6つほど上の妙に貫禄のあるマスターが「いらっしゃい旦那」と言って迎えてくれた。
「マスターご無沙汰で、今夜のおすすめは何だい?」
「今夜は、いい月が出てるからねぇ…。{ブルームーン}なんてどうだい?」
「いいねぇ、じゃあそいつをもらうよ」
カクテルを頼むと、マスターはすぐ準備を始めた。1分ほどして、藤の花のような色をした鮮やかな酒が出てきた。俺は受け取りながら、つまみに数種のチーズを頼んだ。
「旦那、今日はいつも来る時間よりずいぶんと遅かったねぇ、なんかあったのかい?」
「いや、なんてことはないよ、会社の新人歓迎会に行ってて抜け出してきたのさ」
俺は笑いながらマスターに言った。俺はこの店のカウンターで、マスターとしゃべりながら作ってもらったカクテルを飲むのが大好きだ。新人時代にヘマして落ち込んだ時も、マスターのおかげで俺は乗り越えられた。俺にとっては大恩人だ。
「ここ最近新人が入ってくるだのなんだので忙しかったからね、久々にマスターのカクテルが飲みたくなったのさ」
ここに来るのを思い付いたのはさっきだが、実際に俺はそろそろまたマスターのカクテルを飲みたくなっていたのだ。
「うれしいことを言ってくれるねぇ旦那、よし旦那の好きなカクテル一杯おごるよ、何がいいかい?」
「いいのかい?マスター」
今までにも何度かあったことではあるが、やっぱり毎回少しだけためらってしまう。
「かまわないさ、俺と旦那の仲じゃないか、ジントニックにするかい?それともマティーニ?」
流石マスターだ、俺がよく頼むカクテルを覚えてくれている。
「今夜は少しだけ飲んできてるしなぁ…ジントニックを頼むよ」
すでに何杯か飲んでいるし度数が高いほうを俺は避けた。早速マスターは、注文したものを作ってくれた。カクテルを出しながらマスターは、「旦那が帰っちまったら、今夜はもう店仕舞いにしようかな」とつぶやいた。
「どうして俺が帰ったら仕舞いにしちまうんだい?」
「なぁにせっかく大事な常連さんが久々に来てくれたから喜びのままに今夜は仕舞いにしたくなったのさ」
マスターの言葉に俺はうれしさを抑えられないでいた。そして、「そんならマスター、一杯付き合ってくれよ、マスターの分は俺がおごるからさ」といった。マスターは、「こりゃ一本取られちまったな」と言ってほほ笑んだ。
「おあいこってやつだなマスター」
「そうだねぇ旦那」
マスターは手っ取り早く自分の分のジントニックを作った。二人で「乾杯」とグラスをつけてから飲んだ。いつも以上にマスターの酒をうまく感じた。会計をして店を出るとき「また来るよ」とマスターに約束した。マスターも「いつでも待ってるさ」と言って見送ってくれた。帰って風呂を済ませた後、俺は泥のように眠った。あまり覚えていないが、その日はいい夢を見られた気がする。
週末が明けて、会社に出社してデスクに就こうとすると、一人の女性社員が俺に話しかけてきた。
「川村さん!(俺の名前)なんで一昨日の飲み会そそくさと帰っちゃったんですか~!?私、川村さんとお話ししたかったのに~」
俺は、唖然としてすぐに返事ができなかった。相手が俺の見慣れない社員であるところを見ると、たぶん新人だろう。俺の会社では、できるだけアットホームな雰囲気にするためという名目で、課長や部長などを除いては先輩後輩関係なく「~さん」もしくは、「~くん」呼びを原則としている。
「え、いやすまないが君は?悪いが、私はあまり人覚えがよくなくてね…。」
「えぇ~!?一昨日の歓迎会で自己紹介したじゃないですかぁ…。十六夜 優夢(いざよい ゆうむ)ですよ!」
そういえばなんだか聞き覚えのある名前だ。確か入社2,3年目ぐらいの男どもが、「近々十六夜っていうめちゃめちゃ可愛い娘が入ってくるらしい」みたいなことを言っていた気がする。確かに顔はいいし、若いのが好きそうな体型だ。背がそこそこ高くて、スタイルがいい。とはいえ、俺はそんなことは今の今まで忘れていたし、目の前にその十六夜が現れたところで、特に思うことはなかった。世間一般的には美人に入るのだろうが、俺は特に興味を持てなかった。
「あぁすまなかった。で、新入社員の十六夜くんが一体何の用だね?仕事のわからないところは私のようなものではなく、もっと親しみやすい他の年の近い社員に聞いたほうが良いと思うが?」
正直俺は、新人と絡むことに消極的だ。若いののテンションにはついていけない。
「いえ!私入社した時からずっとほかの先輩方から聞いてました!川村さんはすごい人だって、そんな方と同じ部署に慣れたのでかねてより上に申請を出していたのです!」
「申請っていったい何をかね?」
嫌な予感が走り、俺は十六夜に申請した内容を聞かずにはいられなかった。俺の問いに、十六夜は自慢げに言い放った。
「ズバリ、私の教育係をしてほしいのです!!」
嫌な予感は的中だ。俺はこの会社に勤めて以来、新人の教育係になりたくなかったから極力目立たないように仕事をこなしてきたのに遂にお鉢が回ってきた。俺たちの勤める会社は、新人が入社して一年と少しの間、各新人につき一人、先輩にあたる社員が教育係として付くことになっている。俺は今まで上手いことその役が回ってこないようにしてたのだが…よりによって俺が特に苦手なこんな異様にテンションが高いのの教育係なんて真っ平ごめんだ。あくまで俺は、十六夜が嫌いなのではなく、単にテンションの高い新人が苦手なのと、新人の教育係だけは勘弁なのだ。俺の心情には気づかない様子で十六夜が続ける。
「一昨日に申請が通ったことを教えてもらって、歓迎会の時にあいさつしたかったんですけどできなかったので、今参りました!これからよろしくお願いしますね川村さん!」
「あ、あぁ…よろしく十六夜くん」
まだ1日が始まったばかりだが、俺には1つ予想できたことがある。
おそらく今夜の夢見は最悪だ。
前編 完
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