第40話 一緒にはぐくむ
八月の終わり、まだまだ蒸し暑い土曜日の夜。
小春は新宿の、通い慣れた店に来ていた。
少し緊張していて、でも喜びの方がずっと大きくて、何度も深く息を吐く。
「冷たいカモミールティーですよ。はちみつを入れましたから、きっと落ち着きます」
カウンターに腰掛ける小春に、ボーイくんは淡い黄色のきれいなお茶を出す。
「小春ちゃん、どうぞー」
ちょうどその時、マスターが廊下から顔を出した。満面の笑みだった。
昨日、瀬戸から電話があったのだ。
「ジョニイがね、治りましたよ」
小春は何度も何度もお礼を言った。「念のため、マスターの研究室で起動のテストをするから、明日の夜に」と言われ、興奮してほとんど眠れなかった。
「ボーイくん、ありがとう。いただきます」
小春はそう言って、カモミールティーを一気に飲んだ。ボーイくんは目を丸くしたあと、おかしそうに笑った。
もう一度ボーイ君にお礼を言って、マスターの元へ向かう。
マスターは相変わらずニコニコしたまま、小春に尋ねる。
「緊張してる?」
「は、はい。ち、ちょっと……」
コクコク頷きながら、胸に手を当てる。期待と不安でいっぱいで、まるで合格発表みたい。
「大丈夫だよ。ジョニイはきっと目を覚ます」
マスターは小春の肩を優しく叩いた。
「小春さん!お久しぶり!」
研究室に入ると、瀬戸とエースが立っていた。エースは嬉しそうに小春に手を振る。
「この度は、大変お世話になりました」
小春は二人に深々と頭を下げ、マスターにも一礼する。本当に、心から感謝していた。目を覚ますかもしれないという希望があったからこそ、必死になってここまで来られた。
「小春さんに、動作確認をしてほしくてね。いつものように彼の名前を呼べば、目を覚ますようプログラムしてあるんだ」
瀬戸はそう言うと、にっこり微笑んだ。つい最近まで少し痩せたようだったけど、ほんの少し体重が戻ったみたいだった。
「は、はい……」
胸に手を置いたまま、小春は一歩、ジョニイに近づく。彼はまだ眠ったままだった。
「きっと、大丈夫だよ」
エースは優しくそう言い、瀬戸とマスターと共にジョニイから離れる。
「我々がいたら彼が戸惑うかもしれないから、まずは二人で話をしてもらっていいかな?ドアのすぐ側にいるから、もし、彼の挙動がおかしかったら、すぐに呼んでほしい」
瀬戸がそう言って、三人はぞろぞろとドアに向かう。
そういうものなのか……、長い昏睡状態から目覚めたりしたら、やっぱり動揺したりするものなのだろうか……。そう思いながら、小春は「わかりました」と伝えた。
「じゃあ、あとでね」
エースはドアを閉めながら手を振る。真っ白な部屋に、小春と眠るジョニイだけが残った。
少しずつ、ジョニイのベッドに歩み寄る。今夜はピンク色の、ジョニイが選んだワンピースを着ている。その胸元をシワになるくらい、ぎゅっと掴む。でも勇気を出して、震えそうな手をジョニイの頬に触れさせた。
「ああ、あったかい……」
ため息みたいな声が出た。小春の緊張が、ゆるゆるとほどけていく。
懐かしくて愛おしい体温。膝をつき、ジョニイの頬に自分の頬を寄せる。彼の手を握り、今度は彼の胸に頬を乗せる。ほんの少しの、懐かしい機械の音。
「あなたが眠ってる間に、いろんなことがあったのよ。私、あなたのおかげで、生きていくのが楽になった。人生って素敵なもんなのね」
手を握り、涙を浮かべて彼に告げる。
「もし、あなたが変わってしまっても、どうか、あなたの側にいさせてね」
名前を呼んだら、今までのジョニイではないかもしれない。
だから、今のうちに言葉にしておこうと思った。
「ずーっと、愛してるわ」
そう言って、頬にキスをする。
すると唇に、温かい液体が触れた。
「うっうっう……。ご、ごは、ごはるぢゃん……」
びっくりして顔を離すと、ジョニイが大泣きしていた。くしゃくしゃの顔。
「えっ?私、まだ名前呼んでないわよ!?」
小春は蒼ざめる。手も震えた。
「ごはるぢゃぁあん」
くしゃくしゃのまま、ジョニイは素早く体を起こし、小春の胸に抱きついた。
「ジョニイ!?やっぱりおかしいの!?どっか痛いの!?」
小春が慌てふためいて、ドアの向こうの三人を呼ぼうとしたら、ジョニイが顔を上げた。
「大丈夫でず……。ただ本当に嬉しくて……」
久しぶりに見た、若いオリーブの瞳。彼はその瞳から温かな雫を落とし、金色のまつ毛を濡らした。ほんの少し垂れた眉、優しく下に向かう笑いじわ。金色の、ふかふかの髪にキスを落とし、小春も涙を流した。
「私も嬉しい。ジョニイ」
二人はそのまま、床に崩れ落ちるようにして抱き合って泣いた。
「おふたりさーん。どうかなー?ええっ!?」
浮かれた様子のエースがドアを開け、顔を出す。エースの声に驚いたマスターと瀬戸が、なだれ込むように入ってきた。「まさか、誤作動なんてありえないぞ!動作確認は何度もしたはずだ!」とか、声を上げながら。
二人は床に突っ伏して泣いていた。
子どもみたいに声を上げて。ただただ、おんおんと。
「あっははは!!ロマンチックもへったくれもないなぁ!」
エースは笑いながら言ったけれど、彼も少しもらい泣きしていた。
のろのろと起き上がって鼻をすすり、ジョニイを充分にぎゅうぎゅうと抱きしめながら、小春は瀬戸を睨む。
「瀬戸さん!騙しましたね!?」
鼻声で、ずびずび言いながら、小春は微笑んで言う。
「いや!これはエースがね!」
ギョッとした瀬戸はエースを指差した。でも、もらい泣きしている彼を見て、またギョッとしていた。
「小春ちゃーん!!ジョニイー!!おめでとうー!!」
頬を真っ赤にした小春と、泣き腫らしたジョニイが店内に戻ると、ひときわ大きな声が響いた。薫子の甲高い声を、久しぶりに聞いた。
そこにはみんながいた。
薫子とアダム、神楽さんに伸子さん、ボーイ君に料理子ちゃん。
テーブルにはたくさんの料理やお酒が並び、天井からは『ジョニイおかえり!』と書かれた垂れ幕が下げられていた。
それを見て、小春とジョニイはまた声を上げて泣いた。
「いや、どんだけ泣くのよ」
そう言う薫子も、ちょっと涙声になっていた。
みんなジョニイの目覚めを喜び、小春のことをねぎらった。
伸子さんは、「ずっと寝ていてお腹がすいたでしょう」とお手製のお弁当を持ってきてくれた。神楽さんは「伸子さんの卵焼きはこの世で一番うまいんだ」とか言って、「君が寝ている間に、小春ちゃんがどれだけ頑張ったか、今度じっくり聞かせてやろう」とジョニイの肩をバシバシ叩いた。「本当よ、小春ちゃんたらもう、見てらんなかったんだから」と薫子は言い、ティシュで盛大に鼻をかんだ。「ジョニイくんという友達が戻ってきてくれて、僕は本当に嬉しいです」アダムは薫子の鼻をハンカチで優しくふき取りながら、本当に嬉しそうに言った。ボーイ君は、ジョニイにジンジャエールを、小春にスミレの花のカクテルをくれた。料理子ちゃんは、アイスクリームで作られた大きなホールケーキを運んでくれた。
ジョニイも小春も頬を高揚させて喜び、たくさん泣き、たくさん笑って、そして深く感謝した。
瀬戸とエースは、そんな様子を遠くで見守っていた。帽子をかぶり、ドアの前に立った瀬戸は「そろそろ帰るよ」とマスターに告げた。
マスターが「お前は相変わらずだなぁ」とか言っていると、薫子の声が響き渡った。
「あなたが瀬戸さん!?」
薫子はずかずかと瀬戸に歩み寄ると、「あたし、薫子!こっちいらっしゃいよ」と瀬戸の腕をつかんだ。エースは嬉しそうに薫子に駆け寄り、「僕はエースだよ!」と自己紹介をした。
まるで小春とジョニイが初めてここに来た時みたいに、薫子は瀬戸に質問攻めをし、神楽さんはエースの身体を「こりゃ凄い」とか言いながら眺めていた。
「あたしの恋人、アダムよ!」
薫子はアダムの腕にくっついて、瀬戸に恋人を紹介する。
「彼女の恋人のアダムです。はじめまして」
アダムが嬉しそうに微笑んでそう言うと、瀬戸は目を丸くした。
「へぇー!ほぅー!」
そう言いながら、近くに座ったマスターをジロジロ見る。
「ちょっとバッテリーが古くなったときに、おまけでね。知能機械の方もね、ちょっとね。でも本当にちょっとだからね」
マスターは首をかしげて、おどけたように言ったけど、瀬戸がそのまま冷たい視線を送るので、心外だと言わんばかりに「なんだよ!法には触れてないからな!」と声を荒げた。
小春とジョニイはこの温かな空間で、手をつないでいた。テーブルの下で、ひっそりと。
神楽さんと伸子さんはつつましく寄り添って、薫子とジョニイはぴったりとくっついて、エースの話を聞いている。マスターと瀬戸はお互いをからかいあって笑い、たまにボーイくんが口をはさんでいる。料理子ちゃんは、皆がおいしそうに頬張る姿を幸せそうに見守っている。
小春は幸福感に満たされていた。
優しい大切な人々が笑いあっていて、隣には愛おしい恋人の体温を感じることができる。
この会が終わっても、もう一人でアパートに帰らなくて済むのだ。
隣の愛おしい男と、手をつないで一緒に同じ家に帰れる。
たまらないほどの喜びを感じた。
だけどいつもみたいに、小夜子に申し訳ないとは思わなかった。
この喜びは、この幸福は、自分でつかみ取ったものだ。
「ボーイ君、あの、ウォッカ・マティーニをください」
小春はそっと、ボーイ君に注文する。
「小春ちゃん、ウォッカなんて強いの飲むんですか?」
ジョニイが尋ねる。
「いいえ、大嫌いよ」
小春はそう言って笑った。小夜子が死んで、ウォッカも、ウォッカベースのカクテルも、全く飲めなくなった。異常なほど苦く感じて、小夜子を思い出して辛くて、大嫌いなお酒になってしまった。
「どうぞ」
ボーイ君がキンキンに冷えたマティーニを持ってきた。逆三角形の足の細いグラスには、ピンに刺さったグリーンのオリーブが飾られている。
どろりとしたように見えるその不思議な液体を、小春は一口飲んでみる。
冷たい液体が、喉を通るころには蒼い炎に変わって、胃の中が引き締まる。塩のきいたオリーブを味わって、全て飲み干した。
「ウォッカって、おいしいのね」
小春は小さく呟いた。
心の中の、パジャマ姿でウォッカを飲んでいる小夜子が「ねぇ、そうでしょう?」と甘ったるく笑った。
「おっ!ジェームズ・ボンドじゃないか!いいね!僕も僕も!えーっと……、何だったけね?伸子さん」
神楽さんが片手を上げながらそう言った。
「ウォッカ・マティーニ、ステアでなくシェイクで」
おっとりとした伸子さんがそう言うものだから、その場にいた全員が「おぉ!」とか「伸子さんカッコイイ!」とか言った。
「小春ちゃん、これから一緒に過ごすうちに、ジョニイが変わったなって思うことがあると思う。彼はね、まだ知能機械の進化、いや、心の成長の途中なんだ」
会の終わり、瀬戸は小春にそう言った。
「心の成長ですか……」
小春が頷くと、エースが微笑む。
「思う存分、彼を愛してあげてほしいんだ。ただ必要とされるだけで、アンドロイドってのは幸せなんだ。自分の存在意義が満たされて、自分を肯定できる。それだけでいいんだ。小春さんなら、きっと大丈夫」
エースはいつもみたいに「なんてことないさ」といった感じで話す。これは彼の、素晴らしい癖だった。
「だったら、きっと、人間も同じです。少なくとも私はそうです」
少しだけ考えて、小春は二人に言う。
「だったら一緒に育むといいね」
瀬戸はそう言って、小春の頭に優しく手をのせる。大きな手だった。
「一緒に成長できるなんて、とても素晴らしいことだよ」
エースはうんと優しく笑った。
「また来週の土曜よー!忘れたら電話するわよー!分かったぁ?瀬戸さーん!」
すっかり酔っぱらった薫子は、アダムに抱えられるようにして立っていた。
「今日は本当に、ありがとうございました」
小春が深く頭を下げると、ジョニイも急いでお辞儀した。
薫子はお酒の匂いを漂わせて、「小春ちゃーん良かったねぇ」と小春に抱き着いた。
「うん。またダブルデート、しようね」
薫子のハグをしっかりと受けながらそう言うと、「うん行くー!」と彼女はすぐに声を上げた。
本当に久しぶりに、ジョニイと共に新宿を歩く。
小夜子の思い出も、ジョニイの面影も、今日この街には現れなかった。
二人は手をつなぎ、身体を寄せて、ゆっくりと歩く。
「家に帰ったら、たくさんプレゼントがあるのよ」
小春はジョニイの腕に頬をくっつけて言う。
「僕は何も用意していません!」
ジョニイが慌てて言うから、小春は笑った。
「いいのよ。いてくれるだけでいいの。ジョニイがそばにいてくれるだけで、もの凄いプレゼントなのよ」
二人は身体を寄せ合って歩く。二人が暮らした、小さくて幸せなアパートに帰るために。
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