第38話 川をわたるのをやめた人


 膝をつき、ベッドに頬杖をついて、冷たく眠る恋人の寝顔を眺める。


 まぶたの奥に均等に埋め込まれた、暗い金色のまつ毛。ジョニイが箱に入ってやって来た時、物珍しく見つめたことを思い出す。あのときも彼は冷たかった。

 小春の大好きな榛色はしばみいろの瞳を、もうずいぶん見ていない。


 彼の瞳は、小夜子の大好きだったオリーブの実に似ていた。黒くなる前の、まだ若いオリーブ。ほんの少し茶色を混ぜた深い緑。

 小夜子はちょっとだけ塩辛くて、でもまろやかなその実をとても愛した。


 小夜子の夢をみた夜、ジョニイの瞳を見たら涙が出た。


 小夜子が死んで、初めてちゃんと泣いた。




 今になって思うと、小春は小夜子に依存していた。

 もしかしたら、小夜子もそうだったのかもしれない。いや、きっとそうだ。


 兄に愛されない小夜子の寂しさ、誰にも愛されない小春の寂しさ。

 二人は孤独感で結びついて、誰も寄せ付けないで、二人だけの孤独の城に閉じこもった。お互いに依存することで安心し、お互いの寂しさを埋め合わせ、ごまかしあって過ごした。

 それを『親友』という言葉で片付けて。



 自分本位だった。

 だから小春は、小夜子に見捨てられたと思って激怒した。


 もし、本当に小夜子の『親友』だったら……。


 あの夜、小夜子の異変に気が付いたはずだ。

 もっと前に、彼女の話に真剣に耳を傾けたはずだ。


 真っ暗な川の中を彷徨うことなんて、なかったのかもしれない。




 でも、何をどう考えても、あの頃の小春には、もうどうしようもないことだった。


 とにかく辛くてたまらなくて、小夜子の思い出がたくさん残るアパートを引き払って、全く違う土地に引っ越して、清掃員という全く別の職に就いた。


 必死になって自分の気持ちから逃げた。


 だけどふとした夜、恐ろしい思いが津波のように押し寄せてくる。

 その波にのまれないように必死にもがけばもがくほど、小春はどんどん苦しくなった。


 その気持ちを抑え込むために、小春は自分を責めた。


 小夜子が死んだのは自分のせいだ。


 自分を責めて、その罪を感じることで、やっと生きていられた。これは罰だと全てを受け入れ、あきらめ、絶望し、死ぬのを待つようになった。


 自分を責めることで、自分に罰を与えることで、ようやっと、自分を許せた。





 眠るジョニイの顔を見ながら、小夜子を想って泣いた。


 こんな自分を見て、小夜子はなんて言うだろう。


 結局は、甘えて生きていたのだ。

 こんな生き方をしていても、どうにもならないことは分かっていた。だけど前に進むのが怖くて、小夜子を裏切るようで辛くて、ずっと目を背けてきた。小夜子を心の中に閉じ込めて、死んだように生きた。



 でも、そんな自分でも、ジョニイに出会えた。



 小夜子の死から逃げるように仕事を辞め、新しく就いた職場でジョニイが小春を見つけた。

 小夜子の思い出から逃げるために越した新しいアパートに、彼はやって来た。


 ジョニイに恋をして、一緒にご飯を食べ、二年ぶりに自分の洋服を買った。家族や親戚のお兄ちゃんのことを思い出して、ちゃんと愛されていたと思えた。人目を気にせず、一緒に桜を見られる喜びも知った。人生で初めて「愛してる」なんて言って、手をつないで新宿を歩いた。ジョニイのおかげで、人間とアンドロイドの素晴らしい友達ができた。初めてダブルデートをして、新しい仕事にも就けた。


 あなたが動かなくなって、たくさんの人の優しさに満たされた。

 あなたが眠っている間に、一生懸命に生きて、人が好きになって、世界が温かく見えるようになった。

 あなたとこれからも生きていくために、小夜子の思い出ときちんと向き合えた。




 小夜子は死んだ。

 おそらく、自分で死を選んだ。


 もうそれは変えられない。


 自分が背中を押したのか、それも分からない。


 これからも一生後悔すると思う。


 でも小春は、幸せに生きていきたいと思った。


 だって、死んだように生きた時間ですら、ジョニイに出会うように進んでいたのだから。




「ねぇジョニイ、ジンジャーシロップがね、もうなくなっちゃったの。目を覚ましたらまた作ってね」


 眠るジョニイにそう言って、いつものようにキスをする。


 未来のことは分からない。

 だけどジョニイとなら、二人で前を向いて、苦しくても笑って生きていけると思う。

 そして小夜子は、不器用な関係だったけど、一番の親友だった。

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