第37話 川のむこうへ行った人
小夜子が死んだのは、彼女の兄が結婚した日の夜だった。
結婚式のために小夜子が帰省して、小春はアパートでぼんやりしていた。いつも小夜子といるせいで、ひとりでは何をしたらいいのか分からなくて、すっかり退屈していた。テレビもつけずにベッドに横たわって「早く帰ってくればいいのに」なんて思っていたら、電話がかかってきた。
「寂しいんでしょう?」
電話に出るなり、小夜子は言った。
「何言ってんのよ。明後日には帰ってくるんでしょう?」
小春はつい嬉しくなって、声のトーンが上がる。
小夜子に兄しかいなかったように、この時の小春には小夜子しかいなかった。自分の妹と交換出来たらどんなにいいか、と真剣に考えたりもしたくらい。
電話口で小夜子は、小さくため息をついた。
「小春ちゃんと恋がしたいわ。ねぇ、私達、付き合ってみない?」
小夜子がそう言って、小春は眉間にしわを寄せた。
小夜子は兄が結婚すると決まっても、いつも通り何も変わらなかった。少しだけ酒量が増えたぐらいだった。にこにこ笑って仕事をし、ウォッカを飲んでテレビを観て笑っていた。
けれど出発する日の朝、小夜子の目は虚ろだった。目の奥に何も映っていなかった。ただ機械的に、口元だけを不器用に微笑ませていた。
それでも小春は信じていた。きっと、あきらめがついたのだと。
いくら血のつながりがないとは言え、兄との恋愛なんて不可能だと。小春が昔、親戚のお兄ちゃんの結婚式で悟ったように、小夜子だって分かったはずだ。そう信じたかった。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
小夜子の兄への愛情は、とてつもなく深いものなのかもしれない。
自分になんか分かりはしない、強くて激しい愛なのかもしれない。
そう考えると、胸が苦しくなった。
心の中で厳重に蓋をして、ずっとひた隠しにして、必死で見ないようにしてきたものが、ゆっくりと頭をもたげる。小春は急に怖くなった。
「バカねぇ、酔っぱらってんの?とっとと帰ってらっしゃい」
小春は慌てて話をそらす。
でも、小夜子はちっとも酔ってなんかいなかった。酔うと、彼女の口調はもっと甘ったるくなる。
「あら?私のこと恋愛対象として見られない?」
まだそんなことを言う小夜子に、小春はイライラした。
ずっとずっと必死になって隠してきた、どす黒い感情が今にもあふれ出しそうだった。
小春は無意識に、下唇を強く噛む。
「見られないわよ」
吐き捨てるみたいに、小春は呟いた。どうか、彼女が話題を変えてくれますように。
「どうして?」
小春の気持ちなんか無視して、きっぱりとそう尋ねた小夜子にカチンときた。ものすごく腹立たしくて、そして心外だった。
兄なんか、早く忘れてしまえばいいのに。
私を通して兄を愛するなんてひどい。
どうして私を傷つけるの?
どうして私を愛してくれないの?
「お兄ちゃんが結婚して寂しいのは分かるけど、私は小夜子の、血のつながらない兄なんかじゃないわ」
言ってしまった。
早口で、まくしたてるみたいに、ひどいことを言った。
小春はもう余計なことを言わないように、もう一度強く、下唇を噛みしめた。
「そうよねぇ」
そう言って、小夜子は電話口で静かに笑った。風の音と、川の流れる音がした。
小春はその夜、ずっと隠して溜め込んできた、どす黒い感情をあふれさせて泣いた。
小春はずっと勘違いをしていたのだ。
小夜子が愛したのは自分ではなくて、自分に似た兄だった。
初めて誰かに心を開いて、ありのままを受け入れてくれる親友ができたと思い込んでいた。
運命だとか特別だとか思っていたのも、自分だけで、全部間違いだった。
結局、小春は誰にも愛されてなどいなかったのだ。
ものすごく惨めな気分だった。
ちっぽけな人間だな。
いつだったか、テレビを観ながら父が言った言葉を思い出した。
小春はその夜、初めて小夜子を憎んだ。
酷いことをされた、そう思った。
翌日、小夜子から電話があった。
枯れた声で「もしもし」と言うと、年配の女性の声が聞こえた。小夜子の母だった。
着信履歴から、最後に通話した相手が小春だとわかったらしく「何か知らないか」と聞かれた。小春は何も言えなかった。
電話を切って、しばらく訳が分からなかった。
「昨日の夜、橋から落ちたみたいで今朝、川辺でね、遺体で見つかりました」という小夜子の母の言葉が、頭の中で繰り返し繰り返しぐるぐると回る。
昨日の夜、橋から落ちて今朝、川辺で、遺体で。昨日の夜、橋から落ちて今朝、川辺で、遺体で。
一晩中、川をただよった小夜子。
小春はトイレで、何度も何度も吐いた。
ご両親が是非に、と言ってくれたので、小夜子の故郷へ行った。東京は肌寒い程度だったけれど、そこはもう雪が降っていてとても寒かった。
お葬式で小夜子の兄を見た。
栗色の髪の毛は毛先がカールしていて、ちょっと痩せていて、悲しげに微笑むとえくぼができる。彼の薬指に指輪はなく、彼の妻らしい女性も見なかった。
「あなたが小春さんですか?」
名乗る前に、彼はそう言った。
小春が「はい」と答えると、彼はあふれそうな涙や色々な感情を、歯を食いしばって止めた。
「本当にありがとうございます」
そう言って、彼は小さく「ごめんなさい」と言った。
まるで夢をみているみたいだった。
親友の故郷やお葬式も、眠っているような親友の冷たい顔も、親友にそっくりな母親も、本当に、現実感がひとつもなかった。気が付いたら東京行きの飛行機に乗っていた。びっくりした。驚いてキョロキョロしてしまって、隣のサラリーマンが怪訝な顔をした。そしてまた夢をみるようにタクシーに乗って、いつの間にか自分のアパートにいた。もしかしてこのまま眠れば、夢から覚めるんじゃないかと思って、親友のために常備しているウォッカを飲んだ。
でも目が覚めても、小夜子は死んだままだった。
しばらくそんな日々が続いて、仕事も手につかなくなって、辞めてしまった。
たまに自分がどこにいるのか分からなくなったりして、もうどうしたらいいか分からなかった。
そして、だんだんと冷静に考えられるようになった。冷静になると同時に、小春は眠れなくなった。だから、眠れない夜はお酒を飲んだ。
それでも眠れない夜の日、恐ろしい感情が芽生えた。
自分のせいかもしれない。
死にそうな親友に、ひどいことを言った。
自分のくだらない、ちっぽけな感情をぶつけてしまった。
橋から飛び降りようとする小夜子の、あの小さな背中を押したのは自分かもしれない。
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