最終章 ただよいさまよい流れる気持ち

第36話 小夜子のこと


 小夜子は「事故で死んだ」ということになっている。

 お酒に酔って、足を滑らせて橋から転落し、小夜子は川に落ちた。一晩中、ひとりで川をさまよって、翌日の朝、釣り人が死んでいる彼女を見つけた。


 だけど小春は、小夜子は自殺したと思っている。


 だって小春は、死ぬ直前の小夜子と電話で話をしたから。





「あなたって、うちのお兄ちゃんに似てるわ」


 小夜子は初対面で、小春に突然そう言った。


 びっくりして「どこが?」と尋ねると、「雰囲気が似ている」と言われた。毛先がちょっとカールした栗色の髪や、笑うとえくぼができるところ、ぼんやりしている性格も、なんとなく似ているらしい。

 初めは「なんじゃそら」と思ったけれど、小夜子は優しくて話しやすく、すぐに仲良くなった。ついでに人当りも良かったから、彼女は男女問わずみんなに好かれる女性だった。


 でもどうしてか、小夜子はいつだって小春にべったりだった。それはもう、小春に誰も近寄らせたくないような独占欲むき出しの、ちょっと異質な雰囲気だった。


 だけど小春は、それがとても嬉しかった。


 小春は昔から、人にひどく気を使う性格だった。だから、うすっぺらな関係の友人なら、それはもう大勢いた。「私達、親友だよね」なんて言ってくる子もいたけれど、小春はちっともそうは思わなかった。ただ空気を読んで、その人の気分を害さないように接しているだけで、小春にとってそれはほぼ他人に等しかった。

 だからいつか、気を使わないで笑いあえる、本当の親友が欲しいと心から願っていた。


 小夜子は柔らかく笑う子だった。

 言葉の語尾がいつも優しくて、どこか安心してしまう、不思議な魅力のある女性だった。

 そんな彼女の、おっとりとしたおおらかな雰囲気は、小春の心の鎧を簡単にはぎ取った。


 小夜子の前では、ありのままの自分でいられた。すごく不思議だった。

 親戚のお兄ちゃんや、家族にさえ、あまり愛されなかったと思っていたのに、つい最近出会ったばかりの隣の席の同僚が、自分を特別扱いし、とてつもなく大切にしてくれた。


 気を使わずとも、そのままの自分を愛してくれた初めての人だった。

 小夜子は小春に、ちょっとした自信さえ与えてくれた。

 もう運命だと思った。




「いいなぁ、私だったら取引先の人とデートぐらいはするなぁ」


 いつだったか、一緒にお酒を飲みながら、小春はそんなことを言った。


 小夜子はぽっちゃりしていて、物凄い美人というわけではなかった。しかし、彼女のその優しい雰囲気と、不思議な魅力の虜になった男性たちは大勢いた。


 けれど小夜子は、誰とも付き合うことはなかった。


 営業部の人気者にも、取引先のイケメンにも、新宿のバーテンダーにも、見向きもしなかった。


「ダメねぇ、小春ちゃんは。女っていうのはねぇ、たったの一人、この人って決めた人と添い遂げるべきなのよ。あっちこっちに浮気しちゃダメ」


 小夜子はとてもお酒が強かった。40度もあるウォッカを、冷凍庫で冷やして飲むのが好きだった。

 パジャマを着て、キンキンに冷やしたウォッカを片手に、塩の付いたレモンか塩漬けのオリーブ、そのどちらかをつまむ。身体のすみずみまでくつろぐ小夜子の姿。

 二人して閉じこもった、真夜中の小さなワンルーム。暖かい部屋は笑い声に満ちていて、やけに電気が明るくてテレビがうるさかった。酔っぱらって火照った頬の感触や、熱い吐息。無限に続くような気がしたあの幸福な空間を、小春は何年たっても完璧に思い出すことができる。


「彼氏いないんだから浮気じゃないでしょ。なぁに?小夜子ってば、この人って決めた人がいるのぉ?」


 小春は冗談みたいに笑って言う。小夜子のウォッカをちょっぴりもらって、ジンジャエールで割ったけれど、小春にはとても強くて、頬も額も、しびれるように熱かった。


「いるわぁ。小春ちゃんによく似た人よ」


 バラ色の頬をした小夜子は、うんと幸せそうに笑った。まるで結婚の報告でもしそうな顔だった。


「なぁに?それ。適当なこと言って。どうせいないんでしょー」


 小春はすっかり酔っていて、隣に座る小夜子の肩にもたれかかる。


「バレたかぁ」


 小夜子はくにゃくにゃと笑って、小春の頭に頬をのせる。

 「やっぱりね」小春はそう言って、そのあとは二人で深夜番組を観た。「この俳優はカッコイイ」だの「あの女優が離婚した」だの、どうでもいい話をして笑って、ぐでんぐでんに酔っぱらって眠った。


 翌日は二人ともひどい二日酔いで、もうほとんど記憶がなかった。小夜子が迎え酒をしようとして、小春は必死になって止めたりした。



「いるわぁ。小春ちゃんによく似た人よ」



 キッチンでお水を飲みながら、小春はその言葉が忘れられなかった。




 そのうち、小春は気が付いてしまった。


 小夜子は、兄を愛している。


 四六時中一緒にいたからか、そう思うことが多くなって、だんだんと、そうとしか思えなくなった。


「私ね、お兄ちゃんと仲がいいんだけど、実は血がつながってないの。うちの親、連れ子どうしで結婚したのよ」


 そう言った彼女は、どこか嬉しそうだった。


「ねぇ、血がつながってなかったら、兄妹でも結婚ってできるもんなのぉ?」


 いつだったか酔っぱらって、そんなことも言った。

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