第26話 濡れる


 6月も中旬になると、小春の住む街もすっかり梅雨に濡れた。

 外気は常に湿気を帯びて生ぬるく、毎日のように薄暗い雨が降る。



 小春はひどく疲れていた。

 仕事を終え、傘に隠れて駅へ向かい、やっと電車に乗り込むころには、足元はぐっしょりと濡れていた。

 湿気が身体中にまとわりつき、にじみ出る汗と一緒に密着する。

 不快でたまらない。

 知らない人の汗の匂い、イライラした人々のエネルギー、学生の甲高い笑い声。

 小春は歯を食いしばって、大嫌いな自分の足元を見下ろす。



 バスに乗り、やっとアパートに着くころにはもう、眠りたくて眠りたくてたまらなかった。

 いつもはアパートの灯りを見るだけで、そこにジョニイがいると思うだけで、心が温かくなってすぐに元気になれたのに。



 小春の心は、少しずつ弱っていた。


 誰にも会いたくない。


 ジョニイにも。


『美食ロボット』の人々にも。


 アパートの灯りさえ、憎らしかった。

 真っ暗な部屋で、服を脱いですぐにベッドに潜りたい。

 そして誰にも邪魔されず、ずっと永遠に寝ていたい。



 寝たまま、うっかり死なないだろうか。



 脳梗塞とか、心筋梗塞とか、なんなら物が落ちてきて頭を打って即死とか、そんなもんでもかまわない。



 小春はやっと玄関を開ける。


 ジョニイが何か言っていたけど、すでに限界だった。右手をひらひらさせることしか出来なかった。

 小春はもう、恥ずかしさもへったくれもなくなって、びしょびしょの服を脱ぎ捨てる。へばりつく気持ちの悪いストッキング、汗に濡れたブラジャーにショーツ。

 全て脱ぎ捨ててベッドに潜り込む。

 シーツはジョニイの香りがした。

 石鹸と、衣類と、ご飯の香り。

 彼の笑いじわ、彼の美しい瞳。

 大好きなジョニイ。




 目が覚めると最低の気分だった。

 ベタベタの皮膚。朝も昼も、夕食も摂らなかったから、胃が空っぽで気持ちが悪い。喉がカラカラで、口の中が砂漠のようだった。


 隣にジョニイはいなかった。


 起き上がると、彼は部屋の隅に寝転がって充電していた。

 それを見て、小春は泣きそうだった。

 泣いてしまう前に、バスルームに急いだ。




 小春は職場で、嫌がらせを受けていた。

 どこかの誰かが、小春の恋人がアンドロイドだと知ったらしく、彼女のデスクにはたくさんの悪口が貼られるようになった。

 変態とか、好き者とか、ヤリマンとか。

 私物がなくなることもしょっちゅうだった。

 今日はマグカップが粉々になって、デスクの上に広がっていた。

 お気に入りの、ジョニイとお揃いのマグカップ。それはバラバラになっていて、小春の指を切った。


 あんなに優しかった職場の人も、誰も会話をしてくれなくなった。


 毎朝、大量の醜い紙をはぎ取り、ゴミ箱に捨て、視線を感じながら黙々と仕事をこなす。


 小春はただ我慢するしかなかった。


 神楽さんに迷惑をかけたくなかったから、『美食ロボット』にも顔を出せなくなった。




 シャワーを浴びて部屋に戻ると、ジョニイが泣いていた。


「小春ちゃん。お願いですから、もうお仕事を辞めてください」


 180cmもあるはずの大男が、小さな小さな子どものように、丸くなって泣いている。

 小春はそっと、ジョニイを抱きしめた。


「お金なんていりません。僕はいくらでも我慢できます。節約だってできます」


 ぽろぽろ泣くジョニイに、頭の上からキスの雨を降らせる。


「愛してるわ」


 二人はその夜、抱き合って眠った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る