第22話 新しい仕事、あおむけの生活
「ただいまぁ」
ひどく疲れた声が出た。
黒いパンプスを脱ぐと、ストッキングの爪先が伝線していた。それを見て、小春の疲労感は倍になる。
小春は最近、自由で気ままな無職生活に終止符を打ち、新しい仕事についた。
神楽さんの経営する会社で、事務として働きはじめたのだ。
神楽さんは「ぜひ正社員で」と言ってくれたが、小春はアルバイトを希望した。その方が気楽だし、残業もない。
そして何より、きちんと働くことができるか自信がなかった。
小春がバスに乗り、電車を乗り継ぎ、決まった時間に出社していたのは、もうとうの昔で、今考えるとよくもまあ、あんなことができたもんだと思う。
あの頃は小夜子がいたから、ギリギリのところで立っていられた。小夜子が死んでからはもう、出社することさえ出来なくなって、小春はすぐに仕事を辞めた。
それからしばらくして、清掃員という気楽な仕事に就いた。残業も重たい責任もなく、バス一本で通えるのは魅力的だった。
アルバイトといえど、今回は一応事務員だ。残業はないが、それなりに仕事への責任はある。そして神楽さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
だから働きはじめて数週間、小春は毎日、心はガチガチに緊張し、体はヘトヘトのくたくたになって帰宅していた。
「おかえりなさい。小春ちゃん、大丈夫ですか?お風呂沸いてますよ。ご飯もできています」
ジョニイは心配そうに玄関にやって来る。
「ジョニイちゃぁぁん」
小春はジョニイにしがみつく。
彼がいなければ、こんな仕事は絶対にできない。ジョニイの胸元で深呼吸する。石鹸と衣類の香り。
小春の心と身体は、ゆるゆるとほどける。
引き受けなければ良かった……とさえ思うこともあったが、実際、最近の小春の出費は多く、どちらにしても働かなければならなかった。
けれど、なんとかやっていける。
小春はそう思った。毎朝ジョニイが起こしてくれるし、おいしいお弁当も持たせてくれる。帰ればご飯もお風呂も、デザートだって用意されている。
まるで新婚夫婦の夫のようだけど、愛しい男の待つ家に帰るのはやはり幸せだ。
ジョニイがいれば、満員電車もストッキングの伝線も、なんとか乗り越えていくことができる。
お風呂から出ると、部屋中に柑橘の爽やかな匂いが漂っていた。ジョニイがソファーに座って、夏みかんを剥いている。
「うわぁ、おいしそうねぇ」
小春は鼻をふくらませて隣に腰掛ける。
「はい、どうぞ」
器用に剥かれた夏みかんを、ジョニイは小春の口元にやる。小春はぱくりと一口でいただく。
冷たくて甘酸っぱい、つぶつぶの果肉、鼻を抜ける爽やかな香り。
「お仕事は大変ですか?」
ジョニイは次の夏みかんを剥きながら言う。
「うーん、そうでもないわ。職場の人もね、良い人ばっかりよ」
小春はテレビをつけ、今夜観る映画を探す。明日は土曜でお休みなのだ。
「でもここ最近、とても疲れてるみたいです」
ジョニイは心配そうに言った。
「大丈夫よ。まだ慣れないから疲れるだけ。みんな本当に優しい人ばっかりだし」
小春は差し出された新しい果実を口に含む。
「でも……お疲れのようですから、明日はゆっくりします?」
ジョニイは優しく首をかしげる。
「いやよ。絶対に行くわよ」
小春は即答する。明日は19時から『美食ロボット』の日だった。
「分かりました」
ジョニイは笑って言う。小春の元気そうな返事に、心底安心した様子が伝わる。
「あ、そういえば小春ちゃん、荷物が届いてましたよ」
ジョニイはタオルで手を拭い、薄っぺらな段ボールを取り出した。
「あー!やっと届いたのね!」
小春は喜んで受け取り、さっさと開封する。
「なんなんです?」
ジョニイはまた夏みかんを剥きながら尋ねる。
「じゃーん!」
小春が広げたのは、茶色の小さなマットだった。
「これね、アンドロイド用の充電器よ。体の一部を乗っけるだけで充電できるの。もういちいち首からケーブルさしたりしなくていいの。ジョニイ、今日から仰向けで眠れるわよ」
小春は小躍りしながら、ベッドの上のジョニイの枕にのせた。そしてケーブルをつなぐ。
「小春ちゃん、ありがとうございます」
その日の夜、ジョニイは初めて仰向けで眠った。二人並んで、天井を見上げるのも悪くないと思ったが、小春が寝息をたてると、やはり彼女の方に寝返りをうった。
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