第14話 あなたの体温はどうしてこんなに心地がいいのでしょう


 その日の夜、小春は夢を見た。

 悲しいほどリアルな夢だった。



 小春はコピー機の前に立っていた。高校を卒業してすぐ就職した会社の、薄暗いガラス張りのビルの片隅で、親友とおしゃべりをしていた。


「お腹すいたわぁ」


 親友の小夜子さよこが、コピーをしながら呟く。小夜子は色白でぽっちゃりしていて、いつも言葉の語尾が甘ったるくて優しかった。


「そうだぁ!小春ちゃん、帰りに焼き鳥食べに行かない?」


 小夜子とは入社式で出会った。同い年で同じ部署、ついでに隣の席だった二人はすぐに仲良くなった。

 彼女はおっとりしていて明るく、柔らかく笑う子だった。


「えー、ダメよ。私金欠だもの」


 この頃の小春は、若者らしく物欲にあふれ、給料日が待ち遠しく、ボーナスという言葉が大好きだった。


「ふふふ、じゃあ今夜は小春ちゃんのために、私が特製オムライスを作ってあげましょう」


 小春はこの時、ほとんど毎日小夜子の家に泊まっていた。会社から近いというのもあったが、二人は四六時中いつも一緒にいた。

 週末には小春はアパートに帰ったが、その時は小夜子もくっついてきて、結局小春の家に泊まった。


 二人は飽きもせず、いつも、ずっと一緒にいた。

 小夜子は本当に、空気のようにそこにいた。

 一緒に朝食をとり、電車に揺られて出社し、隣の席で仕事をする。一緒にランチに出かけて、夕方には二人でコーヒーを買いに行く。どちらかが残業していても、二人は絶対に一緒に帰った。

 休みの日は会社の悪口を言いながら二人で深酒し、おいしいものを食べ、ケンカなんて一度もせず、毎日冗談ばっかり言って笑った。


 もしかしたら、小春の人生で一番幸せな年月だったかもしれない。

 つまらない会社に勤めていたけれど、小夜子と毎日笑って過ごせるのなら、たとえ戦争が起こっても幸せだったと思う。



 小夜子がコピーを終え、二人はコロコロと笑いながら職場をあとにする。


「私、もしこの会社を辞めることになったら、飛ぶ鳥跡を濁しまくって辞めてやろうって思ったわ」


 小春が言うと、小夜子はお腹を抱えて笑う。


「私も!私も!原状回復できないくらい、とっ散らかして辞めてやるわぁ!」


 薄暗い高層ビルの一階に、馬鹿に元気な笑い声が響く。


 二人はいつもの道を笑い転げながら歩く。しばらくすると駅に着き、同じ電車に乗る。

 あまりにもゲラゲラと笑うので、何度か酔っ払いと間違われたことがある。


 夜の電車は地下鉄みたいだ。朝とは違って優しくてのんびりしている。

 反対側の窓に映る二人は、辛いことなんて何も知らないように笑っている。



 次の駅のホームにジョニイが立っていた。

 グレーのパーカーとデニムでニコニコと手を振っている。

 小春はたちまち嬉しくなって、電車を降りた。


 降りた瞬間、しまったと焦った。


 小夜子の家に帰るのに。

 小夜子とオムライスを食べるのに。

 明日も一緒に出社したいのに。私は小夜子と一緒にいたいのに。


 振り向いた時にはドアが閉まって、小夜子は優しく笑って手を振っていた。


 なんてことをしてしまったんだろう。




 目を覚ますと外はまだ真っ暗で、隣のジョニイはいつも通り機械音をたてている。


「ひどい夢……」


 このままベッドの中にいたら、泣いてしまいそうだった。だから小春は、静かにベッドを降り、キッチンに向かった。

 お水を飲みながら、カーテンをめくって外を覗く。

 真っ暗闇の中に、街灯やほんの少しの家の灯り、夜空は曇って星も月もない。


 小春は胸の奥が締め付けられるようだった。どう表現するべきか分からない、途方もない寂しさを感じた。


 視線を落とすと、冷え切った青白い足先が見えた。

 ああ、心細いのだ、きっとそうだ。早くジョニイのところに戻らなければ、そう思った。



 静かにベッドに侵入する。

 ジョニイは相変わらず、目を閉じて充電している。

 温かな頬を触っても、小春の心は寂しいままだった。


「足が冷えていますね」


 熟れていないオリーブみたいな瞳で、ジョニイは小春の冷たい足に自分の足を絡めた。


「冷たいでしょう?」


 小春は申し訳なく思って言う。ジョニイの足は温かくて柔らかかった。


「どんなに冷え切っていても、僕は好きですよ」


 ジョニイは続ける。


「小春さんの体温はどうしてこんなに心地がいいのでしょう」



 小春はついに涙が出た。ぽろぽろぽろぽろと、次から次に止まらなかった。


 ジョニイはびっくりして飛び起きて、ぽろぽろと泣く小春を慌てて抱き寄せた。

 抱きしめられたジョニイの胸からは、心地の良い石鹸の香りがした。その香りは、小春をひどく安心させた。

 目頭が熱く、ジンジンとする痛みを感じながら、小春はなぜ泣いているのか伝えようとした。でも、どんなに頑張っても、ちっとも声が出ない。




 あのね、私はあまり愛された実感がなかったの。家族だって、親戚のお兄ちゃんだって、今まで恋をした人だって、みんな私を大切にしてくれたと思う。でもね、私はずっと寂しかった。きっと愛されていたはずなのに、どうしてかしらね。誰かの一番になりたかった。すごく欲張りよね。でもどうしたって寂しかったの。大昔にね、小夜子っていう親友がいたんだけどね、彼女は私の体の一部みたいだった。すごく気が合ってね、いつだって一緒だった。お風呂だってしょっちゅう一緒に入ったのよ。離れたくなかったの。あまりにも居心地が良くて一緒にいると楽しくて仕方なくて、上司に怒鳴られたって小夜子の顔を見ればすぐに安心したもんよ。レズビアンとかそういうものだったのかもね。小夜子とは酔っぱらってキスをしたりもしたし。本当に大好きだった。私きっと小夜子のためなら死んでもかまわなかった。だけどね、小夜子は自殺したの。ひどいわよね、親友の私に何も言わず、たったの一人で逝ってしまった。どうして私だけ生きてるのかしら、たまにそう思うの。小夜子が死んで、私の人生は空っぽになったの。もうなにもかもどうでも良くなった。死ぬのを待っているみたいな感じ。でも、ジョニイが来て、私は生きることが楽しくなってしまったの。それって小夜子を裏切ってない?きっと小夜子はそんなの裏切りじゃないって言うに決まってる。楽しく生きなさいって言うに決まってる。本当に優しい子だったのよ。

 ただ私が、私自身を許せないだけなのよ。きっとね、私が自分で勝手に、自分の首を絞めてるのよ。そんなことわかってんのよ。でもどうしたらいいのか、もう、わかんないのよ。




 ただただ涙があふれるだけで、言葉にはならなかった。

 伝えようとしても、気持ちばかりが焦って、そして何よりも、こんなことを声に出すのが恐ろしくて、小春は結局何も言えなかった。




「どうか、泣かないでください」


 ジョニイは優しく小春の背中をさする。


「僕は小春さんがとても好きです。本当に本当に、凄く好きです。それはアンドロイドとして、小春さんの家にやって来たからではないんです。僕は製造された時から小春さんが好きでした。だから瀬戸せとさんに、小春さんの家に届けてもらうよう頼んだんです」


 ジョニイは慌てたように、早口で言った。


「は?」


 小春は泣きながら、変な声が出た。


「瀬戸さんってだれ?」


 小春が顔を上げて尋ねると、ジョニイは悲し気な目をしていた。


「僕らを作った研究者の方です」


 ジョニイはそう言って、真っ赤にしている小春の目に唇を落とし、そのまま鼻にもキスをする。

 そして流れるように小春の唇にもキスをした。

 それはとても優しくて、愛のこもったものだった。


「だから小春さんが泣くと、僕はとても悲しくなります」


 ジョニイは目に涙をためて言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る