第9話 優しいお兄ちゃんのこと


 その日の夜は幸せだった。


 隣で眠る男は、自分の選んだパジャマを着ていて暖かく、清潔な石鹸のにおいがする。


 小春はいつも仰向けになって眠るけれど、その日はそっと、ジョニイの方を向いた。


 影を落とすくらい長いまつ毛、するりと通った鼻、ほんの少し上がった口角。


 ジョニイの寝顔(厳密には充電顔)を見ると、小春の心はゆるゆるとほどけ、身体はとろりと溶けてしまいそうだった。




 小春は27年間の人生で、何度か恋をした。


 中学生の時、小春を好きだと言った同級生の男の子。いつもバス停で一緒になる、名前も知らない男の子。進路について親身になって考えてくれた数学の先生(先生とは一度だけキスをした)。


 どれも大切な恋だった。だけど、小春が一番真剣に恋をしたのは、親戚のお兄ちゃんだった。



 お兄ちゃんは、まだ小学生だった小春としょっちゅう遊んでくれた。


 小春の実家の近くの大学に通っていて、すぐ近所の学生アパートに住んでいた。


 いつも日に焼けていて、がっしりとした体格をしていた。決して身長は高くなかったが、その体格のせいで背がうんと高く見えた。太陽とか、元気とか、健康とか、そういうものを全身にまとったような人で、彼が来るとその場がぱっと明るくなった。

 いつもたくさん友達がいて、いつも楽しそうに笑っていた。

 健やかな好青年、そんな言葉がぴったりの人だった。



 小春は子供の時、お正月とかお盆とか、あるいはお葬式とか結婚式とか、そういうものが大嫌いだった。親戚が集まると、たいてい自分が傷つくことが多かったから。



 小春は幼いとき、出来が悪かった。



 これはあくまでも、小春の父による考えで、今現在の小春からすれば普通だったと思う。


 学力も体力も中くらい。できないわけではないけれど、もの凄くできるわけでもない。

 例えば算数のテストは75点で、運動会のリレーは3位。

 退屈な子だったのだ。


 それでも美術の成績はとても良かった。応募した作品が賞をとったこともある。


「ちょっと絵が描けたくらいでどうなる。絵で飯は食えない」


 父にそう言われ、母には「よかったじゃない」とだけ言われた。その絵は母によって申し訳程度に壁に貼られたけれど、小春はいつの日かこっそり破って捨てた。



 三つ年の離れた妹は、とても出来が良かった。


 成績はとびぬけて良く、作文は優秀賞でリレーはいつも1位だった。ぼんやりとした小春と違って、はきはきと挨拶をし、愛嬌があって皆に愛された。

 父は「トンビが鷹を生んだ」と言い、母は「かわいいお利口さん」と呼んだ。



 幼い小春は、自分を憎んだ。

 全ては出来の悪い自分のせいだと思った。



 妹ばかりが可愛がられるのは、親戚の集まりでも同じことだった。

 小春はいつもにっこり笑いながら妹の後ろに立ち、親戚全員に顔を見せるとそそくさと外に出た。

 祖父母の家なら近所の公園、お葬式とか結婚式なら違う階のトイレの近く。

 小春一人がいないからといって、大騒ぎになったことは一度もない。

 終わるころにはきちんと妹の隣に立っていたし、大抵のことは「迷った」とか「わかんない」で押し通せる。

 そうするとだいたい大人は、「小春ちゃんは、ぼーっとしてるからねぇ」で済ました。



 だけど小春はちっとも寂しくなかった。

 いつもお兄ちゃんが小春を探して、必ず見つけてくれたから。


 お正月には親戚の集まりを抜け出して、二人して内緒で初詣に行ったし、帰りに甘いおしるこも食べた。おじいちゃんのお葬式のあと、火葬場の裏の森でどんぐりを拾って、煙になったおじいちゃんに手を振った。お兄ちゃんが、「じいちゃん、元気でなー!」と叫んで、小春はおかしくて笑った。いとこの結婚式では会場の中を探検して回って、知らない人の披露宴のウェルカムドリンクを飲んだりした。



 お兄ちゃんが大学生になって、近所のアパートに越してきたときは嬉しくてたまらなかった。

 アパートにはいつ来てもいいと言われたし、お兄ちゃんの友達(みんな若くて元気な青年だった)とトランプやテレビゲームもした。

 お兄ちゃんが免許を取って、「俺の相棒」と呼んだ黄色のスーパーカブにはきっと、誰よりもたくさん乗った。

 小春専用の、水玉模様のヘルメットまであった。


 お兄ちゃんは笑うと顔がくしゃくしゃになった。小春はその笑顔が大好きだった。

 ジョニイのくっきりとした、下向きの笑いじわみたいにとても愛おしかった。




 ――それなのに!


 お兄ちゃんは大学を卒業したら上京して、遠くに行った挙句、めったに帰ってこれなくなった。久しぶりに帰ってきたと思ったら、その時には綺麗な婚約者を連れていた。



 お兄ちゃんの結婚式は、もうほとんど泣きそうだった。

 元カレの結婚式に呼ばれる女の気持ち、というものを小春は15才という若さで知った。


 でも、お兄ちゃんのお嫁さんはびっくりするほど美人で、よく笑う、優しい人だった。

 だから、小春は許してあげた。





「元気にしてるかしら……」


 もうすっかりおじさんになったであろう、優しいお兄ちゃんのことを想いながら、隣の男の頬を撫でる。



 そういえば、小春専用のヘルメットもピンク色だったな、とふと思い出した。


 ピンク色のヘルメット、ピアノを弾く妹の小さい頭、父が飲むほうじ茶の香り、母の作る形の良い卵焼き。


 もう何年も実家には帰っていない。

 でもとても幸せだったなと思う。父も母も妹も、お兄ちゃんも、みんな優しかった。




 ふと視線を上げると、暗い森のように深い、ぞっとするほど美しい瞳と目が合った。


「眠れませんか?」


 ジョニイは優しい声で聞く。


「大丈夫よ、もうすぐ寝るところ」


 小春はきゅっと頬に力を入れて微笑んだ。こうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。



「よく眠れるおまじないをしましょうか?」


 なあに?それ?と、小春が口を動かしたとき、ジョニイはそっと、小春の鼻に自分の鼻をくっつけた。そして優しく左右に動かす。


 石鹸と、シャンプーの香りがした。


「子供向けの番組で、こうすると悪い夢をみないと言っていました」


 ジョニイは言って、うんと優しく笑った。小春の大好きな目尻のしわをくっきりと作って。


「ありがとう」


 小春は素直にお礼を言って、そっと目を閉じる。


 今夜はお兄ちゃんの夢が見たい、あのしわくちゃの、優しい笑顔が見たい、そう思った。



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