第100話 世界の深層に住まう妖精の王。

 戦うという考えは、たとえスキルストックが残っていたとしても、コーザにはなかったことだろう。フレデージアとの戦闘とは違って、からめ手は通じない。あのときはたまたま、本体ではないミージヒトを倒すことで、相手を制するのが可能だったが、執行者にそんな連れはいないし、いるようであれば、そんな存在をモンスターとは、きっと呼んでいなかったはずだ。

 全力で、ただひたすらにコーザは走る。

 これほどまでに、黒緑色の世界を駆けまわるのは、いったいいつ以来だろうか。そういえば、コーラリネットで巡回車に追われた際も、今みたいにスキルの残数がなかった。どれだけ場数をこなしていても、やっていることが変わらないようでは、存外、自分はあの頃から、全く成長していないのかもしれない。


「はあ……はあ」


 通路に逃げこんで、荒い呼吸をくり返す。とっさのことで、闇雲に逃げてしまった。自分の現在地がわからない。


「ルーチカ……悪いが、セーフティがどっちか探って来てくれ」

「かまわねえが、それだと俺様のスキルが回復しても、向こうに反撃できねえぞ?」


 正確には少し違う。妖精は拳銃とリンクしたままで、大きく距離を取ることができない。したがって、弾数が復活しない、という表現のほうが的確だが、結論として事情が大きく変わることはない。


「大丈夫だ……。一、二発戻ったところで、どうせ倒せん」


 うなずき、相棒が表へと飛びだしていく。

 さっき、記憶が変によみがえったためだろうか。コーザの頭には、カタレーイナと何者かとの会話が、ぼんやりと浮かんで来ていた。


『執行者と修理霊ドミネーターとは対になる幻獣です。どちらも、妖精王が不在のときに、代わって幻獣たちの面倒を見てくれる、頼もしい子たちですよ。今でこそ、こんなモンスターになってしまいましたが、修理霊ドミネーターは治すために行動し、それが難しいようなら、執行者のほうが、幻獣を葬ってあげるというわけです。あら、なんだか不思議そうな顔をしていますね、――ス。……ええ。別に、どのダンジョンにも、私のような存在がいるのではありませんよ? 元来、あの機能は、役目を迅速に済ますために付与された、特異なものだったのですが……残念ながら、私にそれを止めるだけの力は、残されていませんでした。いいえ……もはや私の命令を、受けつけなくなったと言ったほうが、事実に即しているでしょうか。出現するモンスターにかかる数の調整さえ、もう私にはすることができないのです』


 唐突に思い出した、不自然な過去の出来事。それが自分のものとは、到底思えない。ましてや、そんなエピソードに己の身を委ねるなんて、正気の沙汰ではないだろう。だが、ほかにやりようもないのだ。もしも、執行者と修理霊ドミネーターとが、本当にワンセットであるならば、通路の臨時的な拡張でさえも、互いにできるということではないのか? 

 隠れるのは不正解だ。

 そう考えたコーザが壁から背を離したのは、それらが消失する直前のことだった。

 びゅん。

 どこまでも伸びる執行者の槍が、できあがった空間とともに現れる。もしも、あのまま体を壁に預けていれば、訳もわからぬままに胴体を両断されていた。かろうじてそれは免れたが、だからといって、攻撃を避けきれたわけでもない。利き腕を深く穿たれ、肉が削ぎ落ち、むごたらしくも骨まで露わになっていた。


「――ッ」


 痛む余裕さえなかったのか、不思議と声は出なかった。

 最短距離を維持し、直線に疾駆する。

 向こうは地形を変化させられるのだから、通路を折れ曲がる道理はない。

 やがてルーチカの声が耳に入って来る。


「相棒! こっちだ!」


 ようやく、タオンシャーネの道筋に戻れたのだ。

 不意に、背筋に悪寒が走り、大慌てで頭を縮めた。

 それは蹴つまずいて転んだときと、同じ動作だったが、結果的には幸いしただろう。執行者の一撃は、腰部を薙ぐように振るわれていたからだ。単にしゃがんだだけでは、おそらく頭をもがれていた。

 しゃくしゃく。

 奇妙な音に視線をあげれば、なんと執行者の槍が、ダンジョンの壁に埋もれるようにして、軽く挟まっているではないか。向こうは地形を変更できるのに、いったいどうして……。


(なんでもかんでも、壁を取っ払えるわけじゃねえのか?)


 思えば、氷結の口ぶりも、それをどこか示唆するようなものであった。


『まあ、これを使ってお前が移動するなんぞ、土台無理な話さ。期待するんじゃないよ』


 てっきり、この世界を行き来するうえでの話とばかり、受け取っていたのだが、あの奸物のことだ。わかりにくい物腰で、地下と地表との往来、という意味で使っていたのだとしても、なんら不思議ではない。すでに氷結本人が、修理霊ドミネーターで出口を作れるのか否かを、試しおえていたのだろう。


(野郎! 知っていたなら、教えとけっつうんだ!)


 この九死に一生のチャンスを、逃すわけにはいかない。

 かつてないほどの速度で立ちあがり、再びダッシュをしはじめれば、視界の隅に純石じゅんせきの欠片が映る。地面に血の跡が見えるあたり、ミージヒトの亡骸があった場所に違いない。なるほど、ニシーシが機械から保護するため、匿ったのだろう。本人の姿はそばにないので、きちんと避難できたのだと見える。


(よかった……)


 安心したのも、つかの間の出来事だった。

 通路の先で、ニシーシが尻もちをついたまま、後ずさっていたからである。


「何している! ニシーシ、早く逃げろ!」


 痛む腕に無理をさせ、ニシーシを即座に抱きかかえる。

 疲労はピークだ。

 はたして、セーフティまで自分の体は持つのだろうか?

 嫌な予感を追いやって前を向けば、そこには、別のモンスターが立ちはだかっていた。

 なぜ、チャールティンがついていながら、ニシーシは、何もすることができなかったのだろう。以前に見せたみたいに、純石じゅんせきと壁とでモンスターを閉じこめれば、逃げる隙くらいなら稼げたのではないのか?

 いいや、無理だ。

 こんなものを前にしては、人はだれしも動けない。おまけに、ニシーシにしてみれば、トラウマの再来にほかならないのだから、その恐怖は人一倍だろう。

 骨だけの犬。

 後ろ足ばかりがやたらと長いので、その顔のある位置は、地面と接する勢いだ。

 無慈悲に現れては、容赦なく獲物に死を与えていく。その形は孤独か、純粋な餓死か。いずれにせよ、飛ばし屋ジャンパーと相対しては、どうすることもかなわない。

 前足を地に叩きつけながら、機械がコーザたちをわらうように低くうなった。


「決して、うちから離れるな!」


 鼓舞するように、ニシーシの体を層一層強く寄せる。赤黒い点が、花を咲かせるように広がっていき、やがては空間をねじ曲げる、ワープゲートへと変化した。あらゆるものを吸い寄せる、強烈な風に抗うことはできず、コーザはニシーシもろとも、渦の中へと飲みこまれていった。

 目の前が……青い。

 気がついたとき、視界に映る景色は何もかもが新しかった。

 黒緑色のダンジョンとは根本的に違う、青を基調とした世界。鼻をくすぐる空気には、大きな変化を感じられないので、ここが地下の世界であることに、違いはないのだろうが、こんな場所があるとは想像もしていなかった。

 いったい、ここはどこなのか?

 そう思って辺りを見回せば、近くに裸足でたたずむ人の姿があった。

 燃え盛るような濃い赤色の瞳。

 思わず、フレデージアを想起して身構えるが、順序が逆だ。短い金色の髪は、妖精王本人であることを、雄弁に物語っている。

 何の冗談だと言うのか。

 飛ばし屋ジャンパーが妖精王への近道だったと?

 行き場のない怒りと失望とが、意味もなく胸中で肥大していくが、それをカタレーイナにぶつけるのは、筋違いというものだ。第一、ニシーシはコーラリネットに迷いこむ過程で、カタレーイナには会っていない。

 妖精王のほうも、コーザの来訪は、全く予想していなかったのだろう。しばらくは、驚きのあまり目を丸くしていたのだが、やがてニシーシに気がつくと、そちらへと小走りで駆け寄っていった。だが、動きなれていないのか、その途中で派手に転んでしまう。


「おい……」


 大丈夫かと声をかけるが、妖精王はコーザなど気にせず、一直線にニシーシへと向かう。その勢いに任せて胸に飛びこむと、ニシーシのことを力いっぱいに抱きしめた。どうしてそのようなことをしたのかは、明白だろう。コーザは妖精王に、待ち人を連れていくと約束しているのだから。

 開いた口が塞がらないと、そう言わんばかりに放心する、チャールティンを無視し、コーザは恰好のつかない台詞を、つぶやかざるをえなかった。


「悪いが、そいつはペルミテースじゃない。……人違いだ」

「そうですか……。では、あなたが」


 コーザのほうを振り返ったカタレーイナが、愛する人へと向けるための、柔和な笑みを見せていた。


「ようやく会えましたね。ペルミテース。ずっと……ずっと、あなたを探していました」

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