第4話 リグビー
受付でオコンネルさんからもらった手帳の切れ端を渡すと、すぐに「六番の診察室へ」と通された。中に入ると、髪を綺麗にまとめ上げた女性がいた。この人がハリエットさんだと分かった。
「おかけになって」
ソファを勧められる。
「オコンネルさんから話はうかがっています。ひどい目に遭われたんですって?」
暴漢、や強姦、という言葉を使わないところに配慮を感じられた。私は頷いた。
「ええ、とても怖くって」
「夜道を歩くことに恐怖心を抱いたり、夜眠れなかったり、何か社会生活に著しい困難はありますか?」
「夜道を歩くのは怖いかもしれません。昨日はよく眠れなかったし、若干男性不信も……」
男性不信、なんて言いながらさっきのフィリップスさんのことを思い出す。男性全員が悪い人じゃないってことは、分かっているのだけれど。
「抗不安薬を処方しておきます。それと睡眠薬も。必要でしたら、暴行の被害に遭われた人たちの自助会にもご紹介しますが、いかが?」
「それじゃあ、お願いしますわ」
ハリエットさんはすらすらと書類をまとめた。一式を封筒に入れ、私に手渡してくれる。
「性暴力は魂の殺人、とも言います。あなたは著しく傷つけられたかもしれないけど……」
ハリエット女医が私の顔を覗き込む。
「大丈夫。傷つけられたら癒せばいいのですから。ゆっくり立ち直りましょう」
「はい」
「何か話したいことはありますか? 何でも聞きますよ」
急に話したいことは? と訊かれても、私は言葉に困ってしまった。ふらふらと思考が彷徨った後に出てきたのは、オコンネルさん含め三騎士のことだった。確かにひどい目にも遭ったが、しかしそれ以上に良い出会いもあったのだ、ということをぽつぽつと話した。
ハリエット女医は微笑んで、何だか照れくさそうに私に告げた。
「私もアルドリッジの卒業生ですわ」
私はびっくりして返す。
「まぁ、あなたも」
「サウスマン寮です。あなたは?」
「ウェストボーイ」
「去年の最終採点式はウェストボーイが優勝したそうですよ」
「そうなんですの?」
「ええ、退役軍人の方がここにいらっしゃるんですが、あの学校、軍関係者の同窓会があるでしょう?」
「存じておりますわ。『アザミの集い』でしたっけ」
「そうそう。毎年パレードを鑑賞しに行く企画があるそうですよ。多分卒業生なら歓迎してくれるんじゃないかしら。今度よかったらご一緒してみては?」
楽しそうだと思った。私は微笑んで「ぜひ」と答えた。ハリエット女医はまたひとつ書類を書いてくれた。
「この手紙を渡せば『アザミの集い』へ顔が通るでしょう。退役軍人の方は結構な割合で私のところに来ますからね」
「あら、軍の方って気を病みやすいのかしら?」
「人を傷つける職業ですから、自分も傷ついてしまうのだと思いますわ」
ハリエット女医は小さくため息をついた。
「クランフ帝国時代の奴隷問題もまだ根強いですし、早く平和で平等な世の中がやってくるといいのですけど」
「本当に」
私が頷くと、ハリエットさんはちょっと照れたような顔になって「私が話を聞いてもらっていてはいけませんね」と笑った。いえいえ、と私も笑った。
「処方箋は院内の薬局へ。それと、副院長から言伝です。会いに来てくれると嬉しい、と」
私はびっくり半分、納得半分、という気持ちになった。副院長、つまり三騎士の一人、リグビーさんに会うであろうことは、フィリップスさんが予告してくださっていたからだ。
「副院長室はこの診察室を出て右手、真っ直ぐ行って突き当たりですわ」
と、一瞬ハリエットさんは思い込むような顔になってから続けた。
「もし、男性が怖ければ私が事情を話して同席しますが……」
私は手を振って辞退した。
「いえ、大丈夫だと思います。気をしっかり持たなくちゃ。これから男性と一切関わらないわけにもいきませんしね」
ハリエット女医は小さく笑った。
「あなたなら大丈夫」
と、診察室の出口を示される。
「よい一日を」
「ハリエットさんも」
言われた通り、診察室を出て右手、突き当りへ向かう。「副院長室」と札の出ている部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
中から落ち着いたバスの声が聞こえてきた。私は部屋に入った。
壁一面の本棚。分厚い装丁の本がいくつも並んでいる。カルテと思しき書類は手の届く低いところにまとめられていて、小さなデスクに丸まるようにして座っているのがどうも、副院長のリグビーさんのようだった。彼はペンを走らせながらつぶやいた。
「失礼。これだけ書いてしまいたいので待っていてください」
私はええ、と応えて少しの間立ち尽くしていた。リグビーさんはすぐに書類を書き終えた。出来上がった書類を見て、一言。
「もうここまでバレているのか……」
「はい?」
「いや、こちらの話」
リグビーさんはすっと立ち上がると私に向き直った。びっくりするほど背が高くて、さっきまで机の前で丸まっていたのはよほどの猫背なんだなと思い知らされた。
眼鏡をかけた理知的な顔立ちの人で、確かにこういう落ち着いたタイプの男性が好きな女性はいるだろうな、という感じだった。彼はぎこちなく笑うと口を開いた。
「お母さんによく似ている」
「お母さん、って……」
「ゾーイさんだよ。アルドリッジで教師をしていたろう?」
「ええ」
「僕たちの在学時期とかぶっていてね。魔法学と魔法史学を教わったよ。あいにく私は魔法の才には恵まれなかったが、それでも先生の魔法実験の授業は楽しかった」
私は母の教え子に会うことができて何だか嬉しくなった。しかも、母の仕事を褒めてまでもらえて……ついつい、笑顔が零れてしまう。
「呪文の語呂合わせを今でも覚えていてね。中でも人の心を鼓舞する、『勇気の出る呪文』。魔法は使えなくてもあれは心のスイッチになる。あれを唱えて僕は心を奮い立たせることも多くて」
「あっ、それ私も知ってます。小さい頃母が教えてくれて……」
「『なみだを落とす……』」と、リグビーさんがつぶやいたので私は続いた。
「『……フォールティア』」
勇気、という言葉の古代魔術語はフォールティアというのだ。母はこの呪文の語呂合わせを「
ふふふ、と二人で笑った。リグビーさんは照れたように頭を掻いた。
「調べているんだろう?」
おそるおそる、という口ぶりだった。
「奨学金について」
私はびっくりした。
「どうしてそのことを?」
リグビーさんはにっこり笑う。
「今日の夕方、あの女の子の探偵事務所で会おう」
「はあ」
私はぽかんとした。何が何やら分からないが、しかし足りない頭で何とか推理をしてリグビーさんに告げる。
「あのお金、もしかしてリグビーさんが?」
「さぁね」
リグビーさんが笑う。
「探偵事務所で詳しく話すよ。いや、探偵さんに話してもらおうかな。少なくとも僕の口から語るには、甘酸っぱくて」
ああ、よかったらこれを……。と、リグビーさんがデスクの上にあった包みを私にくれた。開けてみると、お菓子屋マロウルのクッキーの詰め合わせだった。私はびっくりする。
「マロウル……母が好きなお菓子屋さんでした」
「君のお母さんは勉強を頑張っている子によくマロウルのクッキーをくれてね」
僕ももらったものだよ。と、懐かしそうにリグビーさんはつぶやいた。私は何だか嬉しくなってしまって、その場で飛び跳ねそうになった。
「今日の夕方、探偵事務所で」
「ええ、楽しみにしてますわ」
「僕もだよ」
それから私たちは部屋を出た。リグビーさんが院内薬局まで送ってくれた。薬剤師に向かって一言告げる。
「薬代は僕につけておいてくれ」
「そんな!」私は彼を見上げる。
「そういうわけにはいきませんわ。私が支払います」
「いいんだ。君のお母さんには世話に……」
「駄目です。ならぬものはなりません」
私がハッキリ告げると、しかしリグビーさんは、何だか泣き出してしまいそうな、切なさそうな顔になった。それから肩をすくめてつぶやいた。
「……そうだね。じゃあ今回は。追加で薬が必要になったら、いつでも言っておくれ」
それから処方薬をもらった私は、リグビー総合病院を後にした。
約束の夕方まで、私は昨日に引き続き、ランドンでのショッピングを楽しんだ。
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