■#12 Day 3 Wednesday Morning ――3日目。水曜の朝――

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人なつこく“有能な”エスターにお世話されるアナスタシア。

ベッドでやすんでいると、前日にはいなかった猫が出てきて――。


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「おはよう」

 翌朝、アナスタシアが目を開けた瞬間、上からおだやかな声がふってきた。

 エスターが上から見下ろしていた。

「おっ、おは……おはよう、ございます」尻すぼみに声が小さくなった。

「ごめん、いま思ったんだけど、きみの名前をまだ聞いてなかった。呼びかけようと思ってやっと気づくなんて、うっかりにもほどがあるね。聞いてもいい?」

「あ、こちらこそごめんなさい、名前もいってなくて。アナスタシアよ。アナスタシア・シチェルヴァコヴァ」

「発音、むずかしい~」エスターはおちゃめに笑った。

 なんとも自然に手が伸びてきて、彼女のおでこに置かれる。

「うーん、まだ高いかなあ……顔もちょっと赤いし……」

 赤い顔には理由がふたつある気がするんだけど……。

「朝食は食べられそう? 水はここにあるよ」サイドボードを手で示す。

「まだあまりほしくない感じ……でも、起きて寮に帰るからだいじょうぶよ」アナスタシアが起き上がろうとする。しかしきのうと同じようなめまいがして、体がぐらりと揺れた。

「あぶないっ」エスターがさっと彼女を支えた。ああ、やっぱりまだ体が熱い。きゃしゃな肩が思いのほかやわらかくて、どきっとした。

「ぼ、ぼくはちょっと大学に行ってこなきゃならないから、このまま寝てて。もし起き上がれるようなら、きのうのスープが冷蔵庫に入ってる。ひとりでだいじょうぶかな?」

「ええ、もちろん。わたしこそごめんなさい、こんなことになって――」

「いいから、いいから。今日は午前中だけで、昼には帰ってくるよ。メグにも電話して相談しておくから、ゆっくりやすんで。きみは今日は大学だいじょうぶ? 連絡したいところはない?」

 あ、と思って教授の顔が浮かんだ。「いえ……寮はひとり部屋だし、食事も頼んでいないし」きのうの今日で、教授にどんなメッセージを送ればいいのかわからない。

「でもスマホくらいはあったほうがいいかな」どこにあるの、と尋ねるかのような様子でエスターはあたりに目をやった。

「わたしのトートバッグの外ポケットに入ってるわ。でも、いまはとくに必要ないから……」

「そう。じゃあ、とりあえず行ってくるね」

 エスターは心配しながらも部屋を出た。

 リビングを通るとき、アナスタシアのトートバッグが目に入った。ちょっと迷ったが外ポケットにあったスマホを出し、枕元にでも置いといてあげようかと思った。が、バッテリーが少なくなっているかもしれない。充電だけでも先にしておいてあげればいいかな。規格は自分のと同じらしいので、充電スタンドに置いた。

 画面が一瞬、パッと明るくなる。

 あれ?

 待受画面に、なんか見覚えがあったような。

 いまの画面って――。

 はっきりと思い出せないまま、エスターは大学に向かった。


   ***


 アナスタシアは少し水を飲んでバスルームを使ったあと、またうつらうつらしはじめた。

 どれくらい時間が経っただろう。

 浅い眠りをくり返しているような感覚で眠っているうち、足元が少し沈んだような気がした。うっすらと目を開けて、少しだけ頭をもたげる。

 はたしてベッドの足元に、ちょこんと丸い毛玉が乗っかっていた。

 思わず目を見開いて凝視したら、きのうは見かけなかった猫の姿がはっきりと像を結んだ。

 シルバーグレーの紅一点……テラといってたっけ?

 ほんとうにシルバーグレーだ。白っぽいけど白ではなくて、キラキラしてて、アナスタシアのプラチナブロンドとよく似た毛色に見える。きのう見た猫たちよりずっと毛が長い。ふさふさ……といいたいところだけれど、正しくはボサボサ……かもしれない。毛並みがボサボサじゃなければ、ものすごく美しい猫だろう。目がくっきりと大きくて、色はやっぱりアナスタシアと同じクリスタルブルー。

 手足を体の下に入れこんでしまっているのか、小さな丸い毛玉にしか見えない格好でじっとこちらを見つめている。ものすごく観察されているみたい。

 そのときリビングのほうで人の動く気配がして、エスターが帰ってきたことがわかった。

 部屋に入ってきた彼は、目をまるくした。

「えっ、テラがいる?」驚きと、なんだかうれしそうな顔。「びっくりしたー。まさかテラがいるとは思わなかった。知らない人に近づくなんて初めてだよ」

 そういいながらエスターはベッドまでやってきた。テラはぐーっと伸びをして起き上がり、ベッドからとん、とおりると、開いたドアから優雅に出ていった。

「はは、きみたち、なんだか似てるね。じつはゆうべもちょっと思ったんだけど、いまこうして見ると、やっぱり毛や目の色が似てる」にっこり笑うエスターにアナスタシアの胸がとくんと鳴る。

「あっ……」彼はなにかを思い出して、真顔になった。

「あの……アナスタシア、おとといはごめん。大学のパーティから帰るときのことだけど。きみを悪くいうつもりじゃなかったんだ。あれはその……勢いというか、はずみでいっただけで。ひどいことをいってほんとうにごめん」ものすごくばつが悪そうだ。

“趣味じゃない”といったことだと、すぐにわかった。

 はっ! そうよ! わたしこそ謝るチャンスじゃない!

「ううん、こちらこそ、ひっぱたいちゃってごめんなさい。わたしのあれも勢いで――」

「あんなこといわれたら怒るよね」

「ちがうの、怒ったっていうより傷ついたっていうか……いえ、傷ついたといってもあなたの言葉にじゃなくて、その、説明しづらいんだけど……でも、わたしもすごく後悔してたの」

「じゃあ……いまは怒ってない?」

「ぜんぜん」

「よかった」また一撃必殺の笑顔。なぜこんなに彼の笑顔はすてきなんだろう。

「まだ昼は食べてないよね?」エスターが話題を変えた。

「え、ええ、ずっと寝ちゃってて」

「スープを味変してパスタにするよ。それなら食べられそう?」

「ええ、もちろん。ありがとう」

 エスターが出ていき、ベッドのヘッドボードにもたれたアナスタシアは、信じられない展開をあらためて思い返さずにはいられなかった。

 エスターとの再会。こうしてエスターにすっかりお世話されている自分。

 熱こそさがらないが、エスターの手料理をごちそうになって、ずいぶん元気になった気がする。あのエスターがあんなにおいしい料理をつくれるなんて!

 20分ほどしてエスターが用意してくれたランチは、トマト味のスープパスタだった。

「これもおいしい……味変でつくったなんてわからないわ」

「パスタはけっこうエイダに教わったんだ」ちょっとドヤ顔なのがかわいかった。

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