■#09 Day 2 Tuesday Afternoon ――2日目。火曜の午後――

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報告書について教授から叱責を受けたアナスタシア。

あせりと空腹でふらふらになった彼女が出会ったものは――。


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 医科学研究所の建物を出たアナスタシアは、ふらふらと寮に向かって歩いた。

 どうしよう……どうしよう……。

 あんな教授は初めて見た。いつもやさしい教授が、あんなにこわい顔をして怒るなんて……。

 どうすればいいの?

 教授のいうとおり、一刻も早く、もう一度データを精査して分析を――いいえ、それならもうこれ以上できないというくらいやった。おそらく何度やっても同じ結果になる。

 だとすれば、教授のいう“正確な”報告書にするためには、改ざん――。

 なにを考えてるの! そんなこと、できるわけがないでしょう!? 人の命にかかわることなのよ!

 でも……教授の望む報告書がつくれなければ、ここにいられなくなる。まだ大学は始まったばかりなのに……。


 いつのまにか、朝も通ったパーキングスペースまでやってきていた。頭がいっぱいで空腹など感じなくなっていたが、もちろん体は空腹のまま、ふらふらだ。

 ニー……。

 なにか聞き慣れない音が耳に届いた。

 なに?

 アナスタシアは顔を上げた。

 ニー……ニー……。

 やっぱり聞こえる。か細くて高い音。なんの音だろう?

 あの赤いレンジローバーの奥から聞こえるような。

 ふらふらとレンジローバーに近づいた。

 変わったところはなにもない。

 ニー……ニー……。

 でも、やっぱり聞こえる。レンジローバーのうしろの茂みかしら?

 アナスタシアは中腰になっておそるおそる近づいた。少し音が近くなった気がする。

 ニー……ニー……。

 いちだんと体を低くして茂みを覗いた瞬間、ガサッとなにかが飛び出した。

「きゃっ!」思わずのけぞったが、茂みから出てきたのは小さな丸い顔。

 猫だ。

 ほとんど白いけど左目のまわりにグレーが入っていて、目がくりくりと丸い。

 ふつうに見かけるよりは小さいような……子猫なんだろうか?

「ニー」猫ははっきりとアナスタシアを見てひと声鳴き、よろよろと茂みから全身をあらわした。

 やっぱり小さかった。。

 子猫はふらつきながらアナスタシアの足元まで来ると、地面に尻もちをつき、パタリと横たわった。

「えっ? どうしたの?」思わずしゃがみこんで手を伸ばした。

 子猫は目も閉じてしまった。おそるおそる指先でさわってみると、ふわふわとした毛の感触。すごくやわらかくてびっくりする。指先でなでてみても、目を開ける気配はない。

「ねえ、どうしたの? だいじょうぶ?」アナスタシアはうろたえた。猫は好きだけど、ママが動物ぎらいだったから飼ったことはない。どうしたらいいのかぜんぜんわからない。

「あれ、きみ、どうした?」背後から声がした。

 振り返って息をのむ。

 そこにいたのはエスターだった。

 長い脚で近づいてきて、アナスタシアの前にあるものに目を留めると、「猫だ」としゃがみこんだ。

「この子……?」

「そこの茂みから出てきたの。そしたら急に倒れて」

 エスターはそっと子猫の全身に手を当てるようにふれた。「けがはしてないみたいだ。でも弱ってる。たぶん、あまり食べられてないんだな」

 あまり食べられてない……同じだ、わたしと。

 そう思ったとたん、アナスタシアは目の前が暗くなるのを感じた。エスターの顔がぼやけ、ふぅっと意識が遠のいた。


「えっ!? ちょっと、きみ!」エスターはびっくりした。猫といっしょに女の子も倒れた。思考停止しかけたが、そんなことしてる場合じゃない。

 考えたのはほんの十数秒。

 このまま放っておくわけにもいかない。

 自分の車のそばだったというのも、なにかのめぐり合わせだろう。

 エスターはスマートキーでレンジローバーのロックを解除し、倒れた彼女を抱き上げてリアシートに寝かせた。それから車に積んでいたプラスチックのかごに自分のはおっていたシャツを敷いて、子猫も入れた。午後の授業はキャンセルになるだろうが、まあ、しかたない。

 できるだけ静かに車を発進させ、自宅のコテージに向かった。


   ***


「ん……」

 ゆっくりと目を開けたアナスタシアは、白い天井をぼんやりと見た。

 なに? わたし寝てた? じょじょに頭がはっきりして、いっきに朝からのできごとが映画フィルムのコマ再生みたいによみがえった。

 がばっと起き上がると頭がくらくらして、また背中からベッドに倒れる。

 ここ、どこ……?

 目だけ動かしてみるが、まったく知らない部屋だ。

 ベッドはペールブルーのリネンで統一され、ふんわりとした上掛けはめちゃくちゃ上質な手ざわりがする。

 外から足音が聞こえ、またアナスタシアはあわてて起き上がった。やっぱりめまいがしてうなだれる。ガチャッとドアの開く音がして、入ってきたのは……。

 エスターだった。

「うわ、だいじょうぶ? いいから寝てなよ」うなだれたアナスタシアを見て、彼は駆け寄った。「あの……」アナスタシアはベッドに戻されながらエスターを見上げた。

 やっぱりエスターだ。大学で猫が出てきて……そこにエスターがやってきて……。

「ここ、ぼくの家。覚えてる? 大学で倒れたこと」

 覚えてる。というか、思い出した。

 それより、いま彼はなんていった? ぼくの家? 彼の家ですって?

「あの、ごめんなさい。覚えてます、倒れたこと……」

「それでね、人医と獣医と、どっちに先に行けばいいか、ぼくも一瞬パニクっちゃったんだけど……外の猫をすぐに家に入れるわけにはいかなかったんで、とりあえず動物病院にあずけてからきみをここに連れてきたんだ。きみのほうは、ぼくのかかりつけの医者を呼んだから安心して」

「え? かかりつけの医者を呼んだ?」

「そう。そのほうが早いと思って。もうすぐ来ると思う」

 いえいえいえ。

「あの、ごめんなさい、いえ、ありがとう。でもお医者さまはいいです。そんな迷惑かけられないわ。すぐに帰るから」アナスタシアはまた起き上がろうとした。

 しかしめまいがして、どうしても起き上がれない。

「ほら、無理しないで。倒れたんだから、診てもらったほうがいいよ。だいじょうぶ、腕はいいから」

 腕のいい医者……きっと診療報酬も高い。アナスタシアは体調とはべつの理由で青ざめた。

 ビーッ! ドアホンの音だ。

「あ、来た。ちょっと待ってて」エスターは彼女の話などまったく聞いていない様子で出ていった。

 彼はすぐに、白衣をひるがえした40代くらいの女医を連れて戻ってきた。

「あの、ほんとにいいんです、だいじょうぶ、病気じゃないので」アナスタシアはなんとか断ろうとしたが、メグという女医にまあまあとベッドに押し戻されて診察されることになった。

 たしかにめまいはするし、体に力が入らない。倦怠感もある。でもこれはたぶん……というかぜったいに、栄養失調のせい。そんなの、恥ずかしくて診てもらえない。しかもメディカルスクールの学生なのに。

 もちろん、エスターは外に出された。が、ゆっくり休養できるような服を持ってきてとメグにいわれ、適当なものを見繕いに2階に上がった。

 メグはひととおりアナスタシアの状態を診ていくつか質問すると、なんとなく訳知り顔でうなずいた。

「あなた、たぶん自分で思ってるより、だいぶダメージ来てるわよ。今日はここで栄養剤を点滴しておくから、2、3日ゆっくりやすみなさい。もしかしたら熱も出てくるかもしれないけど、とにかくゆっくりやすめばだいじょうぶだから」

 メグは大きなカバンから器材を出して、手際よく点滴の準備をした。途中、エスターからTシャツとやわらかいコットンのパンツを受け取り、そんなものを借りるわけにはいかないとおたおたしているアナスタシアに有無をいわせず着替えさせた。アナスタシアは観念して点滴を受けることにしたようで、目を閉じてされるがままになった。

 ポタ、ポタ、と薬液が落ちはじめ、メグはいったん部屋を出た。


「エスター、いま点滴をはじめたわ。彼女、これまでだいぶ無理してたみたい。なにかの病気を患ってるわけではなさそうだけど、栄養失調といってもいいくらい弱ってるわ。熱が出るかもしれない。しんどそうだったら、脇の下や首筋を冷やしてあげて。あと、消化のいいものを食べさせてあげてちょうだい」

 わかった、というように小さくうなずくエスターに、メグは眉をくいっと上げた。

「ガールフレンド?」

「いや。そういうんじゃなくて、偶然のめぐり合わせ」エスターは眉尻を下げて肩をすくめた。「でも……ちょっと気にはなるかもしれない」

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