栗拾い

あべせい

栗拾い



 年の頃は30代半ば。どこにでもいそうな風采のあがらない男が、ある地方都市の駅前商店街をぶらぶらとやって来る。「拉麺やろう」と暖簾のかかった店を見て、迷わず入った。

 中はカウンター席とテーブル席を合わせて、20人ほどで満卓になる小さな店だ。

 男はカウンター席に腰掛け、壁に貼ってある数少ないメニューを見て、「チャーハン」と注文する。

 すると、注文をとりにきた、若くて美形の女性店員が、

「ラーメン、なしッ!」

 いきなりのことばに、客の男はギョッとする。

 続いて入ってきた客が、「ラーメンに餃子」を注文すると、同じ女性店員が、

「チャーハン、なしッ!」

 とどなるように、厨房に注文を通した。

 しかし、驚いているのは、彼ひとりのようで、他の客は聞きなれていることなのか。平然としている。

 やがて男の注文したチャーハンが、彼の目の前のカウンターに届く。

「これが!? ふつうじゃないか」

 男がつぶやく通り、チャーハンはドーム型に盛り付けられた、どこの拉麺屋でも見かける、ありきたりのものだ。

 そのつぶやきが、厨房の料理人の耳に入った。

「お客さんッ」

「エッ」

 男は、顔をあげて、厨房の中を見た。すると、厨房の中にたった一人で料理を作っている男が、仁王立ちのまま、カウンターの男を見下ろしている。

 坊主頭で眉が太く、年は50才前後。その坊主頭が、

「うちのチャーハンが、よそのチャーハンと変わらねえ、ってかッ。お客さん、帰っていいよ」

「エッ……」

 蓮華を手に取りチャーハンをかっこもうとしていた男は、坊主頭を見上げて、ことばを失う。

 そのとき、チャーハンを運んできた女性が、

「あなたッ」

 坊主頭の後ろから、たしなめた。2人は夫婦なのだ。

 客の男は、坊主頭の男に似つかわしくない女性の美しさに、目を見張った。

「お客さん、あいすみません。夫はきょうは気が立っていまして……」

 女性はそう言いながら、ボールペンで紙ナプキンに走り書きすると、そっと男の前に滑らせた。坊主頭はカウンターに背中を向け、厨房のガス台をいじっている。

 男は左右を見てから、紙ナプキンを引き寄せる。

 そこには、「1時間後、来て。話したいことが」とある。

 男は厨房にいる女性を、もう一度見た。

 こんな誘いは受けたことがない。相手は美人だが、悪人かも知れない。どうして、おれのような男に。疑問が山のように湧いてきて、チャーハンの味どころではなくなった。

 女性は、チラッと男にやわい視線をぶつけたきり、その後は男が食べ終えて立ち上がるまで、素知らぬふりをしていた。

 男が店の暖簾をくぐって出るとき、女性は、いつの間に厨房から出てきたのか、男の背中をポンと叩き、「待っているから」と小声で言って、男を送り出した。


 きっかり1時間後。時刻は、午後2時3分。

 男は店の前に現れた。しかし、「拉麺やろう」の暖簾は中に取り込まれ、さきほどはなかった木製の引き戸がぴったり閉じられている。

 男がどうしたものかと思案していると、突然引き戸が細く開いた。直後、中から手が伸びてきて男の手首を掴むと、強く中に引っ張り込んだ。アッという間だった。

 さきほどの女性が、男の目の前にいて、艶然とした笑みを浮かべ、

「ヨッちゃん、久しぶり」

 と、言った。

 男はまだわからない。見覚えのない美女。先ほどまで髪を覆っていたスカーフは外していて、肩まである豊かな髪が、彼女の魅力を一層引きたてている。

「わたし、豆腐屋の娘、沙千子よ」

「エッー!」

 男は、いきなり背後から棍棒で殴られたような衝撃を受けた。

「沙千子!? あの、ヨチヨチ歩きの……」

 男は、皆野与志基(みなのよしき)。この町に生まれたが、高校中退後上京して、そのまま東京で暮らしている。

 女は横瀬沙千子(よこぜさちこ)。与志基の生家から15分ほど離れた豆腐屋の娘だ。2人の年齢には、5才の開きがある。

「ここで、なにをしているンだ?」

「見ての通り。拉麺屋の女将よ」

「旦那は?」

 すると、沙千子は眉をしかめて、

「競輪……。それで困ってンの」

 この町には競輪場がある。与志基もこどもの頃、父親に連れられて行ったことがあった。

「与志基は何しているの?」

「おれか。おれは……」

 与志基はためらった。正直に言っていいものかどうか。

 詐欺で8ヵ月刑務所にいて、3日前出てきたばかりだ。詐欺といっても、職場の同僚から借りたスーツを質入れしただけだ。もっともそのスーツは、英国製の生地を使って仕立てたオーダーで、50万円もしたそうだ。それまでも同程度の詐欺を数件やっていて、起訴猶予になっていたが、今回はついにムショ送りになった。

「お袋の具合が悪いので、帰ってきた」

「そォ、お母さんが悪いの……」

 沙千子はそうつぶやいて、与志基の顔を上目遣いに下からジッーと見る。

 ウソがバレたか。与志基はヒヤリッとした。

 与志基は、沙千子のその目を見て、幼い頃、近くの山に2人で栗拾いに行ったことを思い出した。

 与志基が小学四年、沙千子が5才の秋だった。どうして、沙千子が一緒だったのか。それはよく覚えていない。

 与志基の家がいつも使っている豆腐屋は、家から500メートルと離れていない近所にあったが、あるとき風邪か何かで臨時休業していたため、与志基は母親に教えられ、駅前商店街の沙千子の家まで豆腐を買いに行ったことがある。

 そのとき、初めて沙千子に会ったのだが、沙千子は与志基が店先にいる間、彼にまとわりついて離れなかった。

 沙千子の生母は、沙千子を生んだ翌年、急な病で亡くなり、沙千子の父はすぐに若い後妻をもらった。しかし、沙千子はその継母になつけず、寂しい思いをしたという。

 その後、与志基は母親から豆腐を買ってきてくれと頼まれると、わざわざ沙千子の家まで買いに行くようにした。与志基も、小さな沙千子がかわいいと思ったからだ。

 しかし、栗拾いは、失敗だった。目当ての栗の木にたどりつくまでに、沙千子が歩けなくなり泣き出した。困った与志基は、沙千子をおんぶして、幅2メートル弱の山道を下ることにした。ところが、途中から雨が降りだし、2人はびしょ濡れになった。

 氷雨ほどではないが、体は冷える。幼い沙千子に風邪を引かせてはいけない。

 与志基は急いだ。両側は杉木立だ。雨宿りのできるところはない。しかし、まもなく道は車が走れる林道になり、民家が見えた。

 与志基は沙千子を背負ったまま、走った。

「ごめんなさいッ! 助けてください!」

 中から与志基の母親くらいの年格好の婦人が現れ、2人を見て事態を察したらしく、すぐに風呂を沸かし、着替えまで用意してくれた。

 与志基と沙千子はタイル張りの浴槽につかり、いっぱいの熱い湯を浴び、心から笑顔になった。そのあと、その家の主に車で自宅まで送ってもらうことができた。

「ヨッちゃん。いえ、与志基さんよね」

 沙千子のことばで、与志基は30年近い昔の思い出から呼び覚まされた。

「ヨッちゃんでいいよ」

「なら、ヨッちゃん。わたし、本当のことを言うと、ヨッちゃんがこの街に来ることは知っていたの」

 与志基は再び驚かされた。帰郷することはお袋にしか伝えていない。沙千子はお袋から聞いたのだろうか。ということは、ムショ帰りということも……。

 与志基は、ようやく悟った。蒲鉾工場で働いているお袋が、20数年ぶりに帰ってきた息子に、「することがないンだったら」と言い、この拉麺屋を教えた理由が。

 沙千子の生家とこの拉麺屋では、鉄道の駅では2駅離れていて、バスでは20分ほどかかる。お袋は、拉麺がうまいとは言わなかった。そこに行けば、仕事がもらえるかも知れないと言ったのだ。

「ヨッちゃん、わたしがどうしてここにいるか、知っている?」

 与志基は首を横に振ってから、

「結婚したンだろう?」

「ううン。そんな簡単なことじゃないわ。わたしは、ここに買われてきたの……」

「買われた!?」

 与志基に初めて緊張が走った。

「兄貴の借金の肩代わり」

「兄貴って、敏朗か」

 沙千子は頷いた。沙千子の2つ上の兄だが、高校を中退して暴走族から窃盗グループに入り、何度も警察の厄介になっている。ただ、不思議なことに、不起訴や起訴猶予ですみ、まだ一度も刑務所には入っていない。

「兄貴がうちのひとから1千万円余り借金をしていて、その引き換えにわたしを嫁に欲しいって言われ……。わたし、断ったわ。でも、そのとき、わたしは30を過ぎていたし、恋人に振られたばかりだった。あのひとも、そんなに悪いひとに見えなかったから、3ヵ月後にこの拉麺屋に来たの」

「いまは、幸せなのか?」

 与志基は、沙千子の暗い表情を見て、余計なことを尋ねたと思った。沙千子は首を横に振る。

「1ヵ月だけだった。よかったのは。あのひと、女にだらしなくて。外に3人もいる。きょうだって……」

 与志基にはどうすることも出来ない。

「わたし、この家を出ようと思うの。結婚して、まだ1年と少しだけど。それで相談したいの……」

 2人は、いつの間にか、客用のテーブルに腰掛け、向き合っている。

 与志基は、薄手のセーターを突き上げている沙千子の胸のふくらみに、つい目がいく。こんなにいい女でも、亭主になれば飽きるのだろうか。

 与志基には結婚歴がない。夫婦はどんなやりとりをするのか、想像ができない。

「おれにでも出来ることなら……」

 与志基は、からみついてくるような沙千子の視線を感じて、快感を覚える。

「うちのひと、競輪のノミヤをやっている。最初は店に来るお客さんだけだったンだけれど、いまでは近くにアパートを借りて、開催日は朝からそこでパソコンと携帯電話を使って、べったり居ついている。だから、競輪開催日は、うちは休みになるの」

 金か。与志基はようやく沙千子の狙いがわかった。ここの亭主は、溜めこんでいる。

「あのひと、銀行は信用しないの。だから、隠している。わたし、この前、それを見つけたの……」

「!……」

 いくらあるンだ、と口から出かかったが、与志基は抑えた。

「ミカンの段ボール箱いっぱい。全部、一万円札。輪ゴムで止めてあって、新札じゃないから、額は、思ったほどじゃないかもしれないけれど……」

 ヨシッ。やってやる。金は欲しいッ。刑務所に戻るのはごめんだが、うまくやればいい。ノミヤで儲けた金なら、やっこさん、警察にも届けにくいだろう。

「おれにどうしろと」

 与志基は、沙千子の瞳がキラッと光るのを感じた。

「わたしと一緒に、逃げて欲しいの。そのお金を持って……。できるでしょ」

「逃げるって、どこへだ?」

「東京。ヨッちゃん、東京にいたンでしょ。お母さんから聞いたわよ」

 与志基は地元の高校を中退してから、上京して、水商売を転々とした。

 喫茶店に始まり、スナック、バー、キャバクラ、クラブと。給料と待遇、働きやすさを量りにかけて、ひょいひょいと職場を変えた。計画も将来への見通しもないまま、生きて来た。この先も、こんな調子で過ぎていくのだろう。

「沙千子、やろうッ!」

 与志基は決めた。この女と地獄の果てまで行ってやる。

 

 東京に向かう新幹線の車中。グリーン車の二人掛けシートに、与志基と沙千子が並んで腰掛けている。

 窓際の沙千子は、通路側の与志基の肩に頭を傾け、よく眠っている。

 与志基は頭上の網棚を見上げる。そこには、野球選手が使う横長の大きなバッグが乗せてある。あの中には、Ⅰ千万円余りの札束が詰まっている。

 与志基は、さきほどから1分と間を置かずに、バッグを見ている。東京まであと1時間弱。早く東京駅に着かないか。その先はしっかりとルートを描いているが……。

 沙千子の夫の等司は、札束を詰めた段ボールを、骨壷を入れる墓石の中に隠していた。昨年購入した墓地で、敷地は一坪もある。沙千子の話では、業者に墓石を作らせるとき、沙千子に留守番をさせ、こっそりと進めていた。

 出来あがった墓石は、石塔、水鉢、外柵などからなり、金持ちの墓所としてはよく見かけるものだ。

 あるとき、沙千子は、訪ねて来た墓石業者と、ちょっと話す機会があった。そのとき、業者は、何気なく、「納骨棺を防水仕様にして欲しいってご注文は初めてでした」と言った。

 沙千子は気にとめなかったが、その後、夫が週に一度は墓参りに行く姿を見て怪しんだ。そして、香炉石が置かれている拝石の下に、ポリ袋で密封された札束を見つけた。

 沙千子は夫に、3日間大阪で遊んでくると言って、家を出て来ている。これまでも沙千子は、競輪開催日で店を休むときは、数日間、バスツアーなどを利用して一人で過ごしている。夫はいつものことと怪しまないはずだ。札束がないと気がつくまで、数日間は稼げるだろう。

 与志基には一つだけ、気がかりなことがある。それは……。

 昨日、与志基は沙千子と最後の打ち合わせのために、「拉麺やろう」に出かけた。等司は、昨日も女に会うため、午後2時から店を閉じることになっていた。

 店は半分程度、お客で埋まっていた。

 与志基が腰かけると、すぐに沙千子が来て、水のグラスを置いた。

 グラスの底に、紙切れが挟んであり、「明日から3日、間違いナシ」とある。

 与志基が明日から3日間、店を休むという意味だ。

 沙千子は厨房に向かって、

「餃子ナシ」と言っている。この奇妙な注文の通し方は、わかってみると、単純なことだった。

 この店には、拉麺、チャーハン、餃子の3点しか、メニューがない。そして、それぞれ2点を組み合わせて注文すると、代金は合計金額から百円を引いてくれる。3点のセットなら、2百円引きだ。このため、ほとんどの客が、拉麺とチャーハン、拉麺と餃子、チャーハンと餃子のいずれかを注文する。

 与志基のようにチャーハンだけの単品を注文する客は珍しい。このため、「餃子ナシ」はチャーハンを意味する。拉麺だけの単品注文をすることはできるが、開店以来、拉麺だけの客はいない。拉麺と言えば、拉麺餃子であり、チャーハンと言えばチャーハン餃子なのだ。拉麺&チャーハンは、そのまま拉麺チャーハン。拉麺、チャーハン、餃子の3点の注文は、「ワンセット」と言って注文を通す。

 そのとき、小声で話している隣の2人連れの会話が、与志基の耳に入った。

「きょう、やりますか」

「いや、明日がいい。明日なら……」

 年配のほうの男が、そこまで言ってから、チラッと隣の与志基に視線を寄越した。

 なんとなく2人を見ていた与志基は、矢を射るような男の視線にぶつかり、慌てて下を向いた。2人連れは、その後すぐに店を出て行った。

 沙千子は、2人連れが使った食器を下げに来たとき、与志基にささやいた。

「いまの2人、警察みたい……」

「エッ」

「前に、近所で空き巣被害があったとき、聞き込みに来たひとに似ているもの……」

 そこで与志基と沙千子は、札束の掘りだしを急ぐ必要を感じ、昨日の深夜、懐中電灯の明かりを便りに決行した。バッグに札束を詰め、バッグは新幹線駅のコインロッカーに入れた。

 そして今朝の10時半、沙千子は、等司がノミ屋をするためアパートに出かけるのを確認してから、与志基と駅で落ち合った。

 2人連れが警察なら、等司はアパートにいる間にノミ行為の現行犯で捕まるだろう。与志基と沙千子は、等司のことなど、もう眼中になかった。大事なのは、これからの2人の生活だ。そして、その生活の礎になる網棚の金だ。

 そのとき、通路の前方から来た大男が、与志基の脇で立ち止まった。大男の後ろには小柄な男がいる。大男はいきなり、網棚に手を伸ばした。

「オイ、なにをするッ!」

 与志基は素早く反応した。

 すると、小柄な男が、与志基の両肩を強く抑える。与志基は、腰が抜けたように立ちあがれなくなった。与志基はわけがわからない。小柄な男は、不思議な柔術を使うらしい。

 大男はその間に、網棚からバッグを下ろし、与志基の膝の上に置くと、ジッパーを引いた。中には、輪ゴムで止めた万札がぎっしり。

「あんた、ナニするの!」

 目を覚ました沙千子が、大男に食ってかかる。

「国税庁の査察です。このお金は、横瀬等司さんの隠し資産ですね」

 沙千子も与志基も、開いた口がふさがらない。

「ご亭主に頼まれたのでしょうが、脱税の証拠として預ります」

「これは、おれたちの金だ」

 すると大男は、バッグの口を閉じて、肩に掛けた。

「我々は昨夜から、墓地であなた方の行動を見ていました。墓石にお金が隠してあることは、10日前に把握しています。不服がある場合は、こちらに出頭してください」

 と言って、名刺を寄越す。

 そこには、「国税庁 静岡支部 鐘先……」とある。こんなものはいらない。与志基は、目の前にいきなり暗幕を下ろされたような気持ちになった。

 列車が熱海駅に着いて、大男と小柄の2人連れが、ホームを歩いて行く。大男が与志基のほうを振り返り、窓ガラス越しにニヤッと笑った。小柄の男は腰の高さで、バイバイと言いたげに手を横に振る。列車が動き出す。

「ヨッちゃん、あの2人……」

 昨日の2人連れとは違う。

「でも、うまくいったね」

 沙千子は、再び頭を与志基に預け、うれしそうな笑みを浮かべる。

「あァ」

 しかし、与志基にすれば、予定外だった。新幹線に乗ったとき、うまくいったと思ったからだ。しかし、沙千子は、「まだ、油断できないから」と言っていた。沙千子のほうが、はるかに周到だ。

 昨夜、横瀬家の墓地に行ったとき、沙千子は刑事に尾行されることを考え、与志基ひとりを先に行かせ、墓から掘り出した1千万円をバッグに詰め、コインロッカーに預けた。

 1時間後、こんどは2人でもう一度墓地に行き、納骨棺にあった残りの4千万円余りを段ボール箱に詰め、コンビニから宅配便で、予約している東京のビジネスホテル宛てに送った。

 1千万円は、リスク回避の必要経費と思えばいい。沙千子はそう言った。与志基には惜しい気がするが、等司は当局の手入れを受けたことを知り、諦める材料になるだろう。等司がすべてを知るのは、刑務所を出てきてからだ。2年先か、3年先か。

「ヨッちゃん、わたし、こどものときの、栗拾いを思い出したの」

「エッ……」

 与志基は、沙千子に握られた手を握り返す。

「あのとき、ヨッちゃん、すぐに栗拾いを諦めて、下山したでしょう。わたし、うれしかった。行く前はあんなに楽しみにしていたのによ。ヨッちゃんって、やさしいンだなと思った。おぶってくれたし……」

「あァ……」

 与志基は、どうしてすぐに栗拾いを諦めたのか、よく覚えていない。天気はよくなかった。栗があるかどうかの確信もなかった。与志基自身、疲れていたのかも知れない。与志基にとっては、苦い思い出だが、沙千子には……。

「ヨッちゃん、こんど田舎に戻る機会があったら、あのときの農家のおばさんに、お礼しない? 熱いお風呂、気持ちよかったもの……」

「沙千子」

「なァに?」

「おれは、おまえを離さない。絶対にだ」

「うれしいッ」

 沙千子は、与志基の腕をつかみ、自分の胸に押し当てる。

 しかし、与志基は思う。こんなことで本当にうまくいくのだろうか。他人の金を盗み、その金でこれからの生活を考えている。こんなことが続くわけがない。しかし、……。

「ヨッちゃん、東京に行ったら、2人で拉麺屋をしようよ。拉麺とチャーハンと餃子だけのお店。うまくいくから」

「おれが拉麺屋のオヤジか」

「わたしは女将……」

「いつまで続くかなァ……」

「平気よ。拉麺屋って、地道にやっていれば、そこそこ食っていけるンだから」

「そうか……」

「わたしが歩けなくなったら、またおんぶしてね」

 与志基は、沙千子の横顔を見て、たまらなく愛しくなった。

                    (了)

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栗拾い あべせい @abesei

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