第2話

「ただいま」と口にしてから、ああしまった、また言っちまったと思った。この癖はおそらく一生直らないだろう。


 出迎えてくれたのは本だった。本棚からはみ出し、部屋からはみ出し、押し入れも廊下も占拠して、とうとう玄関の上がり框にまで進出した無言の本の山。


 これらの本はすべてSFだ。もはやこの一軒家は、人の家に本がたくさんあるというより、本の隙間に人が生息していると表現した方が正しい。


 気温が少し高いせいか、3月の雨は真冬の雨よりも冷たく感じる。風邪をひかないようにシャワーを浴びた。しかしこれはよくない選択だったかもしれない。浴びている間に余計なことを考えてしまったからだ。


 そんなんだから――。


 あの先、彼女が何と言おうとしたのかは見当がつく。そうだよ、俺はもうすぐ大学7年生だよ。今年度は数えるほどしか学校に行っていないダメ学生だよ。卒業も就職も何の見通しもなく、死んだ親の家に居座って遺産を食いつぶしながらSFを読むしか能のない男だよ。その遺産だって30歳前にはゼロになっちまうよ。人生詰んでるよ。


 風呂場から出ても気分は淀んだままだった。小さい棘が刺さったようなもので、閾値を超えるか超えないか程度の苦痛だが、いつまで経っても消えてくれない。


 時間が早いのに、ついペットボトル入りの安ウィスキーに手が伸びた。これで潜在意識が活性化して珍奇な発明をすれば俺も立派なマッドサイエンティストだが、もちろんそんな風にはならない。陰鬱な雨音を聞きながら杯を重ねるうち、さらに思考が余計な領域へ入ってしまった。


 俺には友達がいない。SF以外に話題がないし、無理して相手に合わせるのは苦痛以外の何物でもないからだ。唯一それに近い存在が水島有希恵みずしまゆきえさんだった。彼女とはSNSで知り合い、たまたま二人ともSFを読んでいて、たまたま同じ町内に住んでいることもわかって、カスミで会って話をするようになった。俺も最初は、話し相手ができたと喜んだ。


 ところがどうしたことか、SFの話はできても話が合わないのだ。今回もリプレイものの作品をめぐって、俺はあの主人公の行動ではタイムパラドックスが起こると指摘したのだが、向こうはそんな点はどうでもいいと譲らない。なまじ話が通じるぶん、かえっていらいらさせられる。


 アルコールが脳内で渦を巻く。俺の思考も螺旋を描いて渦の底へ底へと引きずり込まれる。


 細かい理屈にこだわり過ぎ。水島さんの言いたいことをまとめると、そうなるだろう。しかしSFから細かい理屈を取ってしまったら何が残る。ロジックの面白さこそSFの精髄だぞ。彼女は何もわかっちゃいない。


 あと、書名とか作家名とかを間違えるといちいち訂正してくるのがうざい、とも言ってたな。そんなの当たり前だろ。間違えたまま憶えていられるそっちの神経こそ信じられない。ましてや俺は記憶力が並外れていいんだぞ。お気に入りのSFなら空で一字一句まで憶えている。こういう記憶をぜんぶ消去して空きメモリに英単語や数学の公式を入れておいたらもっと上等な人生が――いややめておこう。こっち方面のことを考えると虚しくなる。


 だいたいあの上から目線は何様のつもりだ。ミステリも純文学も読んでる? どれもこれも中途半端にかじっているだけのくせに。俺にもSFにもいちいち文句をつけるのなら、いっそSFのない世界にでも行っちまった方がいいんじゃねえか。どう思います、皆さん?


 いつの間にか酔い潰れてしまったらしい。頭が痛くて胃がむかつく。


 しかしそんなことを気にしている場合ではなかった。なぜなら俺が目を覚ましたのは、ただならぬサイレンの警告音によってだったからだ。これは確か、自治体が災害発生時に流すやつだ。


 サイレンの合間に誰かが話しているが、アルコールが残っている頭ではよく聞き取れない。テレビをつけると、カスミのテレビに映っていたアナウンサーがまた喋っていた。ただし今度はおそろしく切迫した口調でだ。


『先ほどのロケット打ち上げは失敗し、人口密集地域に墜落することが確実になったとして、政府は緊急避難指示を出しました。対象地域は――』

 ! 思いっきりこの辺りじゃないか。


 玄関から飛び出すと、日の暮れかけた外は阿鼻叫喚の極みだった。道路は至るところ自動車による大渋滞で、あちこちで衝突した車が火を噴いている。その隙間を縫うようにして、傘もささずにずぶ濡れで避難する人、人、人。警官や消防隊員の指示に交じって飛び交う怒号、悲鳴、哀訴。甲高い泣き声は親にはぐれた子供のものだろうか。


 最初に避難指示が出たのはいつなのだろう。いまからでも間に合うのだろうか。人の波に流されてふらふらと小走りになりながら俺は考えた。人の流れは街の西側にある丘陵地へ向かって、どんどん集中していく。丘の背を超えて反対側へ降りれば多少でも衝撃波を避けられると、誰もが思うのだろう。


 俺が丘の頂上へ上がったところで、人の流れが急に止まった。狭い道路に人が詰めかけすぎて、文字通り二進も三進も行かなくなったのだ。しかし後ろからはどんどん人が押し寄せてきており、密度は高まる一方だ。身動きがとれないどころか呼吸するのも苦しいくらいだ。


 やがてほど近いところで叫び声が起こり、背中に強い圧力がかかった。かろうじて首をひねると、後ろの人々がこちらに向かって集団で倒れてくるのが見えた。度を越した押し合いへし合いの結果、人なだれが起こったのだ。


 とてつもない轟音と振動に襲われたのは、その瞬間だった。激しい光が網膜を焼く。


 ロケットが墜落した!


 その瞬間、俺の頭をよぎったのは、なぜか先ほど酔って巻いていたクダのことだった。人間って死ぬときはつまんないことを考えるもんだなあ、という感想とともに。

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