第2話 感無量
「リッチェ…」
その人は、私を見て、私の予想していた女性の名を呼んだ。
そうだろうと思っていた。
物語に無理やり改良の余地を見出すなら、それが勇者パーティのメンバーであるのなら、彼女しかいないと。
でも私の意識は現れた人に夢中になっていた。
驚くほどいい声だった。
決して小さくはなく、それでいて囁いているような低音ヴォイス、辺りが静かならよく通るとさえ言える、けれどすぐ側で大声を出されたら掻き消えるだろうそれ。
まさにイメージ通り、解釈一致。感激である。
彼は私が横になっていたベッドへと駆け寄り、すかさず頸動脈に指を揃えて触れてきた。
じっと集中するその顔を見上げる。
知性を見せる鋭い藍色の瞳。
すっと通った鼻筋に形の良い薄い唇。
短い濃紺の髪から生えるふさふさした狼の耳。
鍛え上げられ、細く引き締まった身体。
あぁ、間違いない。
この姿は、推しのラルクだ。
青系ということは、まだ物語が始まる前だろう。
私が追いかけていた彼は、黒髪黒目だったから。
まさか本当にこの人が実在していて、こんな風に動くなんて。
彼はその手を下ろすと、今度はじっと私の顔を見つめた。
私はまた、笑いかける。
身体が強張りきしむように痛むので、少し歪なものになっていたかもしれない。
けれど、彼の表情が、感極まったように少し歪んだ。
常に感情を表さない、ぴくりとも動かない表情筋が、こんなに働くのだと初めて知る。
「お前……驚かすな。死んだと思っただろ」
見ている方が胸を締め付けられるようだった。
知っている、貴方は、狼人の習性で、群れの長となると庇護欲が発生し、付き従うものには何処までも甘くなるって。
だけど彼女のこともそこまで大切にしていたんだね。知らなかったよ。
「私も、死んだと思ってました」
「冗談にならねーんだよ」
言い出したくせに、拳を握り額に押し当て目を瞑る。
少しの間、そうしていたけど。
ふと我に返って、魔法師を呼んでくる、とその場を離れて行った。
強張る身体を持て余しながら、私は溜め息をつく。
本当にラルクに会えた感動と、いまだ信じがたい動揺と、興奮と、身体の気持ち悪さとで、頭の中も心の中もぐちゃぐちゃだ。
私が転生したのは、女神の戦士の一人、鳥人のリッチェ。
ラルクの元部下で、事情があって離れ離れになってしまい、物語の中盤でやっと合流するものの。
それまでに見たことがない気を許した顔を勇者に向けている彼を見て、嫉妬に狂い、呑まれ、彼を殺して自分も死のうとし。
脱落した唯一の戦士だった。
■□
たとえ小説の知識があっても分からないことがある。
やってきた女性の回復魔法師が、魔法をかけて私の具合を見て、衰弱しているだけで問題はないと言うと。一言二言交わしてラルクは出て行った。
彼女はそのまま残り、私を暖かい服に着替えさせて、水や口にできるような食べ物を用意して、持ってきてくれた。
かけてくれた魔法のお陰か、どうしようもない頭痛や気持ち悪さは引いている。そのおかげで、だるさは残るものの漸く身体を起こせた。
「リッチェ…あんたつくづく強運、ううん、豪運というところだわ、これは」
傍に椅子を引いて腰をかけ、安堵と呆れを混ぜたように語りかけてくる彼女のことは知らない。
先端だけ尖った耳と、普通の肌色に黒と緑が混ざったような髪色であるところを見るに、ハーフエルフかと思うけど、物語には一度も出てきたことがないからだ。
けれどその様子と距離感から、よく知っている間柄のようだ。
それなら適当に合わせたところですぐボロを出すだろうから、一部の記憶がないとでも言った方がいいかもしれない。
「あの……ごめんなさい、ところどころ覚えてないんだけど、貴方はどなたですか?」
「は? 隊長は記憶のことはなんとも言ってなかったのに、まさか隊長のことだけ覚えてるとか言う?」
「ぐ」
「……しんじらんない、筋金入りだわこれは。心配して損した、失礼なのはなんにも変わってない」
「ごめんなさい」
「よしな、殊勝なあんたとか、気持ち悪いから」
ひどい言われようだ、さすが作品随一の嫌われ者リッチェ。言葉の端々に敵意の滲む様から、彼女とも仲良くはなかったのだろう。
彼女は篭からまんまるな白い実をとって、ナイフで皮を剝き始める。コミカライズで出てきたことないな、なんだろあれ。状況からして果物だと思うけど。
「どこまで分かってて何を分かってないのか確認しながらだと面倒だからざっと説明する。
ここは十三部隊の寮。あんたの部屋。私は同僚のハイエ。
あんたは任務に失敗して捕まって、情報を吐かされる前に自害した」
私は瞠目する。
自害した?
設定資料集も手に入れたけどそんなこと載ってなかった。
もっとも、リッチェは出てすぐ脱落する脇役だから、資料集でさえ半頁しか割かれてなくて、情報が少ない。
ラルクの元部下で、帝国の皇帝直属の諜報部隊隊員だった程度のことしか書かれていなかった。
「隊長はあぁいう人だから、遺体が痛めつけられる前に、危険を承知であんたを取り戻したの。きっと毒のおかげで仮死状態だったんだと思う、傷一つない身体で息を吹き返せたのは隊長のお陰。後でお礼を言いな?」
「あ、えぇと…」
「え、まさかこれも詳しく説明しないと分からない? それで隊長のことだけ分かるとか引くわ」
ハイエは眉間に皺を刻む。物言いに遠慮がなくてちょっと怯んでしまう。
それでも、私事と仕事は別なのだろう、新聞を持ってきたりして私の何もわかっていないぶりを丁寧に確認すると、世界地図を持ってきてくれた。
きつい当たりは仕方がないのかもしれない、なんたってリッチェは、筋金入りのラルクストーカーなのだから。
「ここが私達のいるジスター帝国で、世界一の大国。そして人間以外の亜人は差別されている。あぁ、食べてていいから、そのままで」
剝いてくれた果物は、皮を取った途端に崩したゼリーのようになり、疲労困憊した身体でも受け付けた。それを用意してくれた木製のスプーンで同じく木製の器から掬って食べる。
中身は薄いピンク色で瑞々しくてほんのり甘く、弱った身体に染み入った。
「亜人とは、要は私達のこと。
うちの部隊はそれぞれ身売りされたり誘拐されたりで人身売買されて奴隷にされた亜人で構成されている」
彼女は感情を殺したような冷たい顔になる。
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