第七章
二日目の午前中に発注しておいたハツカネズミとカエルが届いた。運んできた車両を海岸線の浜へに止めてクレーン船が来るのを待った。
やがて、ボーっという汽笛とともに船がやってきて、艀がこちらに向かって近づいてきた。次々とネズミとカエルの入った檻を艀に積み込んで行った。檻と言っても獲物が小さいだけに周りを金網で囲ってある。
「よし、用意は整ったようです。われわれも乗り込みましょう…」
南像教授の号令一下高井戸菅田を始め、宿に泊まり合わせていた全員が乗り込んだ。艀に乗り込むと、南像は奥山にこんなことを訊いた。
「奥山マスター、あなたはこんなことにばかり拘わっていて、店の経営のほうは大丈夫なのですか…」
「へへへへ…、その心配には及びませんよ。先生、うちのカミさんはね。カツ丼親子丼の類いはあっしよりも上手いくらいなんですから…、どうせチッポケな町食堂なんですからね。そうそう、てんてこ舞いするほどの客なんざやってきませんよ」
「ほんだ、良さどごのおカミさんの親子丼はうめえもんな。あれはやっぱり天下一品だべ」
「ほう…、源三さんがそれほどお褒めになるのでしたら、ぜひ私も一度ご馳走になって見たいものですな…」
艀が本船まで着くと、艀ごと上に釣り上げてもらい南像たちは乗船した。
「さて、今回はどんな反応を示すか楽しみですね。南像先輩」
「うむ、前回の子豚と子山羊の時は、何のデータも得られなかったが、今回は何らかの結果を待ちかえらないと、いくら何でも須部田博士に面目が立たんからね。何としても成功させないといかん」
「ですが、南像さん。子豚たちの時だって、すぐにどこへ行ったのか分からなくなったに、さらに小さなネズミとカエルですよ。カエルはともかくとしても、ネズミのすばしっこさと云ったら豚や山羊の比ではないと思うんです。あっという間にどこに行ったのか分からなくなっちゃいますよ」
「うむ…。その点だが、今回は特別に数匹のネズミにだけ、特殊なセンサーを取り付けてもらった。だから、その周波数を私の携帯で察知することができるはずだから、それを追えばネズミの居所がわかる仕掛けになっているんだよ」
「それは、うまいところに目をつけましたね。先輩…」
そうはいったものの、高井戸の中には一抹の不安が残った。これまでにも幾度となく裏をかかれた前例があったからだった。
やがて船は幽霊島のある海域に近づきつつあった。
「おーい、化け物島が見えできたぞー」
みんなに知らせる源三の声が聞こえてきた。
「いよいよですね。先輩…」
「うむ…、今回はうまくいってくれるといいが…」
渚の近くまで船を寄せると、艀に乗り込んで海上に下ろしてもらうと、源三が艀を操作して島に近づいて行った。
島に到着すると艀を浅瀬に寄せて、ネズミとカエルの入った檻を下ろしにかかった。檻とはいっても動物などを入れる檻とは違い、大きさはそれほどでもないが鉄製だからかなり重い。それを五人がかりで担ぎ上げ浜辺まで運ぶのである。
何回か艀と浜辺の往復を繰り返して、ようやくのことで搬送は終わった。
「みなさん、ご苦労さまでした。みなさんも疲れたでしょうから、ここでしばらく休憩しましょう」
南像は額の汗を拭いながら浜辺の砂に腰を下ろした。
「いや、慣れない力仕事はするものではありませんね。ひさびさに重いものを持ったりするとかなり疲れるものですな。ふう…」
長身の菅田もゆっくりと砂地に腰を下ろしながらひと息を入れた。
「そこへいくと、源三さんは大したものですよ。その細身の体で、あれだけのものを運んでも息ひとつ乱してないんですからね。いやぁ、御見それしましたよ…」
平然とした表情でタバコを吸っている、源三を見て菅田は感心したように言った。
「何云ってるだ。先生だちは机さ向かっている頃に、おらだちは毎日海に出て魚と戦ってんだ。それさ比べたらあんなごと屁でもねえことだべ…」
源三は海の男としてみたら、当然のことだといわんばかりに、吸い終わったタバコを波打ち際まで行って消した。
「どれ、休憩も終わったようですから、ひとつ始めましょうかな…」
南像はおもむろに立ち上がるると、ネズミ入った檻の扉をゆっくりと開け始めた。解き放たれたハツカネズミたちは一斉に飛び出していった。高井戸たちもネズミやカエルの檻を開け放して行った。カエルたちはピョンピョン跳ね回っていたが、ネズミは蜘蛛の子を散らしたように、あっという間にその姿が見えなくなってしまった。
ポケットから携帯を取り出すと、南像は静かに電源スイッチを入れた
「お…、確かに反応はあるようです。みなさん参りましょう。こちらのほうです …」
南像の誘導で、みんなはぞろぞろと後に続いて森の中に入って行った。しばらく、その行動は続いたが、突然南像の足が止まった。
「こ、これはどうしたことだ…。たったいままで反応があった信号が、急に途絶えてしまった…。何としたことだ…」
南像は呆然自失とした表情で立ち止まった。
「なるほど…、そういうことでしたか。私には何となく解かってきたような気がしますね…。教授」
「どういうことです。菅田博士…」
「つまり、信号を発する計器の音が途絶えたということは、この島は生体反応を示すものだけではなく、計器類のように信号を発するものも、ひとつの音として捉えそれを排除する。私たちだって、蠅や蚊が飛んでいたら気になるから、叩き潰すか追い払ってしまうでしょう…。それと同じことを、この島はやっているのに過ぎないのです。つまり、動くものとか音を発するものには敏感なんですよ。その証拠に、石とか金属宝石のような無機質のものには反応しないんです。だから、源三さんの姪御さんが発見された宝石の首飾りは無傷のままだった…」
「と、いうことは、今回の計画もすべて無駄だったということですか…。それでは、いつまでもここにいても仕方がないということですか…。わかりました。さっそく、ここを引き上げて戻りましょう…」
南像を先頭に艀に戻ると、クレーン船に向かって帰って行ったが、乗り込んだ者の中ではひとりとして口を聞くものはいなかった。しかし、この時砂浜に解き放された千匹のカエルの姿が、一匹もいなくなっていることに気づいた者は誰もいなかった。
宿に帰ると、常に後手後手に回されている反省会と今後の作戦会議が行われていた。
その席上で高井戸はこんなことを言った。
「僕は前から気になっていることがあるんですが、例の古文書の写しに出てくる一節がどうしても引っかかっているんです。
男が飼い犬をあの島に連れて行って犬を島に送り込む下りで、犬が喜んで砂の上を転げ回ったり、後足で脇腹を掻いていると急に島が騒めき始めて、ついには犬もろともに幽霊島は姿を消してしまった。と、いうところが、僕にはどうしてもわからないんですよ。
ここには家で犬を飼っていらっしゃる、由美子さんもおりますのでお聞きしますが、犬が地面を転げ回ったり脇腹を掻くのは、どういう習性でどういう時なんでしょうか…」
「うちで飼っているのはセントバーナードという大型犬ですので、あまりそういうことは見たことはありませんが、子犬が転げ回るのは嬉しい時とかだと思います。それから、脇腹や首を掻くのは痒い時かしらね…」
『そうか。痒い時に後足で掻くか…、僕たちだって頭が痒けりゃ手で掻くしなぁ…。でも、どうして犬が転げ回ると島が騒めき出すんだろう…。ああ…、ますます解からなくなってきた…』
高井戸は出口のわからない迷宮にでも、迷い込んだような気がしていた。行けども行けども、なお正体の掴めない妖怪じみた化け物島。江戸時代以前の遥かなる古(いにしえ)の昔より、その時代の人々により語り継がれてきたと伝えられる。その名も『幽霊島』という、そもそもいつの時代にどこから現れたのか誰も知らないのだ。
『うーん…、いくら考えても、このままじゃどこまで行っても堂々巡りだな…。ここはひとつ発想の起点を変えないと駄目だ…。犬が転げ回ると島がざわつき始める…。どうも、その辺りに何か謎を解く鍵が隠されている気がするな…』
高井戸は、そんなことを考えていて、その場で話し合っている南像や、菅田の声は聞こえていないようだった。
「あのう…、会議中に申し訳ないのですが、しばらく席を外させ頂いてもよろしいでしょうか…」
由美子が半分立ち上がりかけて南像に訊いた。
「ああ、構わんですよ。どうぞ…」
「あのう、すみません…。それから高井戸先生も、少しの間お借りしたいのですが…、すみません…」
「え…、僕もですか…」
高井戸も一瞬、キョトンとした表情で由美子を見上げた。
「すみません。高井戸先生、お願いします…」
それだけ言うと由美子は先に出て行った。高井戸も廊下に出て、由美子の後を追いながら訊ねた。
「どうしたんですか、由美子さん。急に連れ出したりして…」
「だって、高井戸先生はさっき、苦しそうな難しい顔していたから、どこか具合でも悪いんじゃないかと、あたし心配してたんですよ…」
「あは…。あれか…、ごめん、ごめん。あれは違うんだよ。由美子さん、最近の僕は『幽霊島』という、とてつもなく永い迷路に填まり込んでしまって、抜け出そうとしてもがいているんだけど、もがけばもがくほど深みに填まりそうだったんで、たぶんそんな顔をしてたんだろうね…」
「なーんだ、そうだったんですか。あたしはてっきり、高井戸先生がどこか具合でも悪いんじゃないかと、心配していたんですよ…」
「でも、ありがとう。由美子さんがそんなに心配してくれてたなんて、夢にも思っていなかったから、とてもうれしいですよ。ありがとう…」
そんな話をしながら、高井戸と由美子はいつの間にか、港を外れ砂浜のある辺りまで来ていた。
「うわぁ…。あたし、この辺までくるのって久しぶりなのよ。
あたしね。高井戸先生、この浜辺には忘れられない思い出があるんです…。小学校の三年か四年生の頃だったわ…」
「人には誰でもひとつやふたつは、必ず忘れられない思いでがあるっていうからね。それで、由美子さんの思い出とはどんな思い出なのかな…」
高井戸も子供の頃を思い出すように、水平線の彼方を見つめながら訊いた。
「あれは夏だったわ…。夏休みが始まって間もなくの頃だったの。あたしは友達とか近所の子とか、みんなで一緒に泳ぎ来ていたの。
そのうちにみんなで砂を掘って、埋めっこしようということになって、順番に穴を掘ってひとりづつ砂に埋めて行ったのよ。そうしたら、あたしは最後のほうになってしまって、やつと自分が埋めてもらう頃には砂を掘った疲れで、あたしは砂に埋まったまま眠ってしまったらしいの…。
ふと顔に水が掛かって気が付いたわ。目が覚めたら夜になっていて、周りを見ても真っ暗で誰もいなかったの…。そして、よく見ると波打ち際がすぐ目の前まで来ていた。もう満ち潮の時間になっていて、あたしは慌てたわ。
体は砂に埋まっていていうことを利かないし、波はどんどん近づいてきている。自由に動かせるのは首だけですもの、あたしは必死になって首を動かして、少しでも自由が利くように首を振り動かしたの…。
でも、砂は重いしあたしの力くらいでは、どうすることもできなかった…」
「それで…、由美子さんはどうしたんですか」
「あたしは疲れと寂しさで、どうしようもなくなって泣いたわ。泣き疲れて涙が出なくなるまで泣いたのよ…。お終いには涙も出なくなってしまい、あたしは疲れてウトウトしてしまったの…。
そしたら、遠くのほうで誰かがあたしを呼ぶ声がしたの。お父さんとお母さんと源三伯父さんの声だったわ。あたしは、また泣き出して声にならない声で叫んだわ。それで、やっと掘り出してもらって助かったの…」
「うーん…、大変な思い出があるんですね。由美子さんはこの浜辺に…」
「でも、よかったわ。高井戸先生がどこも悪いとこがなくって…、あたし本当に心配していたんですよ。さっき、あんなに苦しそうな顔していたから…」
「いやぁ、妙に心配をかけてしまって、すまなかったね。由美子さん」
「ううん、いいんです。それより早く帰らないと、今度は南像先生たちが心配しますよ。帰りましょう。先生、」
「うん、そうしよう。これで少しは気晴らしにもなったし、帰りましょうか」
ふたりは宿泊している宿に向かって、足取りも軽く戻って行った。
「たけど、僕はまだ犬が地面を転げ回ったり、犬が後足で脇腹を掻いたりすると、島全体が騒めき立つという件については、どうしても納得のいかないところがあるんだよ…。ふーむ……」
「あら、まだ考えていたんですか…。高井戸先生」
「いや、何んといわれても納得のいかないものは、無理に納得しようとして有耶無耶にはできないんだよ。僕の性分かも知れないんだけどね…。こうなったら意地でも僕は、この秘密を解き明かしてみせるぞ…。そうすれば、自ずとあの化け物島を撃退できる方法だって、見えてくるに違いないんだからね…」
「うわぁ…、高井戸先生。かっこいいわぁ…」
「さあ、宿も近くなってきたから急いで帰ろう。あまり遅くなっても、南像先輩たちが心配するだろうから…」
宿に戻ると南像たちは、まだ真剣に討議を続けている最中だった。
「やあ、お帰り。ずいぶん早かったようだが、どこへ行ってきたのかね…。高井戸くんたちは…」
南像は会議を中断してまで出て行った高井戸たちを、咎(とが)め立てする様子も見せずに向かい入れた。
「いえ、何でもありません。ちょっとしたヤボ用でして…、会議中にすみませんでした」
高井戸が席に着くと、南像は会議の中間報告をした。
「ただいまの会議の中でも、あの島についてはどこまで行っても堂々巡りでありまして、いかように発想の転換をしてみたところで、悠久に続く迷路から抜け出すどころか、ますます深みに填まってゆくような気がします。つきましては、一度ここを引き上げて東京に戻りまして、各自で改めて研究及び検討をしてみるのも、ひとつの方法ではないかと思いまして、みなさまのご意見をお聞きしたいと思いますが、いかがなものでしょうか…」
と、南像は話を締め括った。
「私には意義はありません。ここでこういうことを云うと、みなさんに誤解を受けるかも知れませんが、私は独自研究というのが一番性に合っていると思いますので賛成いたしますよ。教授」
菅田がいち早く賛成した。
「僕も二三調べてみたいことがありますので、賛成します」
高井戸も賛成したので、南像は話の締めにかかった。
「以上のような意見が出ましたので、この会議は本日を持ちまして解散いたします。みなさん、長らくご苦労さまでした。それから、源三さんには一方ならぬお世話になりまして、心より御礼を申し上げる次第であります。ありがとう、源三さん」
みんなから源三に盛大な拍手が送られ、当の源三は唖然とした表情をしていたが、われに返ると急に恥ずかしくなったのか、半分うろたえながらみんなに向かって言った。
「お、おらぁ、何もやってねえ…。ただ、高井戸先生だの南像先生が一生懸命に頑張ってだがら、おらもちょっこだげ手伝っただけだ。ほだに褒められっと、こっ恥ずかしくなっからやめでけろ…」
それでも、源三に対する拍手はしばらく止むことはなかった。
翌日、東京に帰る一行を源三と奥山が、駅まで見送りに来ていた。
「いや、みなさん…。お忙しいところを、わざわざお見送りに来ていただいて恐縮です」
南像が見送りにきたふたりに礼を述べた。
「マスターにも源さんにも、いろいろとお世話になりましてありがとうございました」
高井戸も奥山と源三に別れを告げた。
「高井戸先生。また、こっちに来るようなことがあったら、あっしにもぜひひと声かけてください。いつでも大歓迎いたしますから…」
「由美子…、おめえも元気でなぁ…。悪い男に騙されんじゃねえぞ…」
「伯父さんも元気でねー…」
「さようなら…、また来まーす…」
かくして五人を乗せた電車は、一路東京を目指して走り去って行った。
電車の椅子にもたれ掛かりながら、高井戸はまた考えていた。
『背中が痒けりゃ、俺たちだって何とかして掻こうとするよな…。手が届かないところなら、孫の手とか定規を使ってでも掻こうとする…。犬の場合は後足で掻くのか…。でも、痒くなる原因は何だろう…』
考えてみても、さっぱり分からなかった。
『人間は頭や腕とかが痒くなるのは、フケが出ている時とか蚊に刺された時だけど、犬とか猫はどうして痒くなるんだろうか…。じゃあ、牛とか馬のような大きな動物はどうなんだろう…。うーん、わからん…。よし、東京に戻ったら、徹底的に調べてやろう…』
そんなことを考えながら、高井戸はついウトウトしてしまった。
それから、どれくらい時間が経ったか青山に声を掛けられた。
「先生、起きてください。東京に着きましたよ」
「ん…。青山か…、もう着いたのか。いつの間にか眠ってしまったな…」
「先生、だいぶ疲れてるんじゃないですか…。かなりぐっすり眠っていたみたいですよ」
「いや、僕は疲れてなんかいないぞ。ただ、あの古文書のことを考えていたら、つい眠くなってしまったんだろう…。別に気にせんでいいぞ。あれ…、南像さんたちはどうしたんだ…。席にはいないようだが…」
「南像先生なら、先に帰ると云われて降りられましたよ」
「それで…、何か云われてなかったか…」
「何も云われてないよね。由美子さん…」
青山は由美子のほうを見て訊いた。
「そうね、何も聞いてないわね…。ただ、南像先生は高井戸先生を見て、『高井戸くんも疲れているのだろう。この汽車も、ここが最終駅だろうから、そう慌てることもないさ。しばらく、そっとしといてあげなさい』って云われていたわ。
南像先生も優しい人なのね。きっと…」
「うーん…、南像先輩にしっかり見られたか…。まあ、いいさ。さて、僕たちも帰ろうか。
ところで君たち、お腹空いてないかい。よかったら、僕がどこかでご馳走してあげようか…」
「ホントですか…、先生」
「わあ、嬉しい…」
青山も由美子も大喜びで、高井戸とともに列車から降りて駅を出ると、夕闇迫る街の雑踏の中へと姿を消して行った。
それから一週間ほどが瞬くうちに過ぎ、その間にも高井戸は犬・猫・牛・馬などの生態に関する本を、図書館に通い片っ端から読み漁っていた。その中でも犬や猫が脇腹を掻く習性は、ノミやダニなどが寄生している可能性が高いことが分かってきた。しかも、動物ノミは猫などが外から家に運んでくることが多く、畳やカーペットの隙間に産卵し潜伏する。また、ノミの寿命は二週間ほどで犬ノミ猫ノミは人にも寄生し吸血する。
『そうか…、そうだったのか…。これで判ったぞ…。犬が地面を転げ回ったり、後足で脇腹を掻いたりするのは、ノミヤダニに血を吸われて痒かったからだったのか…。しかし、待てよ…。確かに、あの化け物島は生き物に違いはないらしいけど、島は島だから血液なんかあるはずもないし、何故ノミを嫌がったり騒めき立ったりするんだろう。ああ…、またまた分からなくなってきたぞ…。ここはひとつ南像さんでも、相談してみるしかないのかな…
高井戸は、その日のうちに南像に電話をして、明日伺う約束を取り付けて家路に着いた。
翌日、約束した時間に合わせて、高井戸は南像の家を訪ねていた。
「…と、いうわけで、僕はこっちに帰ってきてから、方々を廻って犬や猫の習性について調べていたんですよ。そうしたら、どうも犬や猫が腹や首の周りを掻くのは、ノミやダニなどが寄生している場合なんだそうです。
ですから、古文書に書かれている犬が転げ回ったり脇腹を掻くという行為は、そのノミとかダニを排除しようとしたんじゃないと思ったんです。
ですが、僕にはどうしても腑に落ちないところがあるんですよ…。
幽霊島が生き物だとしても岩石質の島ですから、血液なんか流れているはずもないですし、何故か犬がそれら寄生虫を体から排除した途端に、幽霊島がいきなり騒めき出し、て姿を消してしまったのかという点です。
僕にはいくら考えても、その答えが見つからなくて先輩に相談に上がったという訳です」
高井戸はこれまで一週間かけて調べたことや、自分が疑問に思っていることなどを南像に話した。
「うーむ…、そういうことだったのか…。高井戸くんも、よくそこまで調べたもんだよ。私も気にはなっていたのだが、夏休み明けには教授会があるんでね。今回は私の担当だったものだから、その準備に手を取られていてね。私も調べようと思ってはいたのだが、そっちのほうまでなかなか手が回らなかったのだよ」
「それで、先輩にお聞きしたかったのは、血液も流れていないはずの一個の島が、どうして二ミリにも満たないノミやダニに騒めき立って、別次元の世界に移動してしまったかという点なんです」
高井戸の問いかけに、南像もしばらく考え込んでいた。
「私も、そういうことは専門外のことなので、まったくと云っていいほど解からんね…。どうだろう…。ここはもう一度、須部田博士にでも相談に乗ってもらってみては…」
「そうですか…。やはり、須部田博士に相談するしかありませんか…。ですが、南像さん。博士もかなりのご高齢ではありますし、僕としてはあまり負担をかけたくないと思っていたんですが、大丈夫でしょうか…」
「そんなに心配をすることもないだろう。あの方は、ああ見えてもいくら高齢とは云えど、好奇心の旺盛な方だから自分でわからないことがあると、矢も楯もたまらずガムシャラに突っ走るタイプの方だからね。高齢とはいえ精神的には私などより、よほど若いところが残っておられるからね。
よろしい、これから博士のお宅にお伺いしてご意見を聞こうじゃないか…」
「これからですか…。そんな…、アポも取らないでいきなり押しかけて行って、大丈夫なんですか…。先輩」
「大丈夫だよ。そんなに心配しなくても、須部田博士もかなりのお歳だから、そうは頻繁には外へも出られないだろう。あの方と私は宇宙空間物理と民俗学で、畑こそ違うが若い頃からよく面倒を見てもらったものだよ。
須部田博士は常に私にこう云われていた。
『南像くん。君は宇宙の創世に神の存在は必要だったと思うかね。わしはそうは思わんね。神が万物の創造主なら、宇宙や太陽系・地球その他の星々を造ったのなら、何故自ら造り上げた三葉虫・アンモナイト・恐竜といった太古の生き物たち、強いてはネアンデルタールといった、人為の始祖たちを絶滅へと追いやったと思うかね』と、云われた後で決まってこう付け足されたものだ。
『この大宇宙にも地球にも、神などというものは初めから存在していなかった。それを太古の人類の祖先たちは、自分たちで理解できないものを押し並べて、神という存在に置き換えて恐れ戦(おのの)いた…。そういうことだと思うのだがね。わしは…。
旧約聖書に出てくる、神は六日間かけて世界を創り、最後の七日目に自分に似せて人間を創り、それでよしとされた。と、あるが、人間たちは次第に勝手気ままことを行い始めた。それらを見られた神はいとも簡単に洪水を起こして滅ぼされた…。しかし、わしは思うのだが、神が存在しているのなら失敗は許されない。それは神だからだ…。
そもそも宇宙の始まりは、時間も空間もないまったくの無だった。そこへ、われわれの測定式では計り知ることのできないほどの、超微量の原始的原子が発生した。原子は徐々に膨らみを帯び、次第に熱と圧力を増して行き大爆発を起こした。これがいわゆるビッグバンで、ここから宇宙は膨張を初め現在に至っているというこじゃ』
と、いうわけで、あの方は神の存在などまったく信じていないのだからね…。化け物島の存在をどのように解釈してもらえるのか、私も大いに期待しているのだよ…」
「ええ、あの化け物島に対して博士は、どのような認識を持たれているのか、お話しをお伺いするのが僕も楽しみですよ…」
これまで自分が抱いてきた、数々の疑問がすっきする知れないと思うと、高井戸は自分の中に渦巻いていたモヤモヤとしたものが、薄らいでいくような気がして急に体が軽くなった思いがしていた。
「よし、それでは出かけようか…。高井戸くん」
ふたりは高井戸の運転する車で須部田博士邸へと向かった。
宇宙空間物理学の世界的権威とあって、博士の邸宅は実に見事な佇まいであった。案内を乞うと執事らしい男が出てきて、南像が博士への目通りを請うと執事は一旦引き下がり、続いて助手のひとり海原が出てきた。
「南像教授、高井戸さん。御無沙汰しております。さあ、こちらへどうぞ…」
と、海原は南像と高井戸を博士のいる研究室へと案内して行った。
「先生、南像教授と高井戸准教授がお見えになられました…」
須部田は椅子を回転させてゆっくりと振り向いた。
「おお、南像くん、高井戸くん。よく来てくれた…」
「博士、御無沙汰いたしております。今日は化け物島のその後のご報告と、博士のご意見を伺いたくてやってまいりました」
「うむ…、わしも大雑把なことは菅田から聞いとるよ。まあ、その辺に掛けなさい。それで、あの後はどうなったのかな…。どうせ、君たちのことだから何度も島に行っとるのだろうが…」
「いやぁ、博士には恐れ入りました。何もかもお見通しのようですね。先輩」
高井戸は、須部田博士に自分たちの行動を、見透かされているような気がした。
それから、高井戸は自分たちが見たり体験してきたことを、南像と交互に語り最後に犬が砂浜を転げ回ったり、後足で脇腹を掻いたりすると島が騒めき立って、急に船頭の前から消え失せたという古文書のことを語った。
そして、犬が脇腹を掻くのはノミやダニを、排除するための行為であることを知ったこと語った。だが、どうしても島が生き物であるにしても、血液などあるはずもない島がノミやダニを恐れるのか、いくら考えても堂々巡りの迷宮に填まり込んでしまうことを正直に告げた。
「なるほどのう…。生き物であるにも拘らず血液など流れているはずもない島が、何故かノミやダニを毛嫌いするのか…。果たして、あの島がいつ頃の時代にどこから現れたのかじゃのう…、うーむ…」
須部田博士は、苦悶に満ちた表情で考え込んでしまった。しばらく考えた末に、須部田はおもむろに顔を上げた。
「うーむ…、やはり結論はこれしかないだろう…」
「何かわかったのですか。博士…」
「須部田博士…」
高井戸も南像も即座に須部田に詰め寄った。
「まあ、そう慌てるでない…。結論は逃げも隠れもせんからのう…」
須部田は、そういうと深呼吸をひとつした。
「これは、あくまでもわしの個人的な推論推測にしか過ぎない…」
高井戸は生つばを飲み込んた。
「昔…、太古の人類が誕生する遥かな昔に、地球に流星群が降り注いだ時期があったのじゃ。恐らく、その中のひとつにある種の細菌が附着しておったのじゃろう。大気圏突入時にも完全燃焼はしないま、地表まで堕ちたのじゃろうて、そして原始地球の細菌と混合して何百億年もかけて、進化発展したのがあの化け物島だったのじゃろう…。但し、これはあの恐竜が絶滅したと云われておる、小惑星衝突とは別の話じゃから、そのつもりで聞いてほしいのじゃよ…」
「しかし、博士。これはかなりの問題ですな…。博士の推論だけならそれで済みますが実際の話、このまま島があの海域に居座ったりでもしたら大問題になりかねませんぞ。
私は門外漢で詳しいことはわかませんが、今のうちに早く手を打ちませんと、人類滅亡とまでは行かないまでも、このままでは済みそうもありません。何とか手を打たなくてはなりませんぞ…」
高井戸は、こんなに焦りの色を露わにした南像を初めて見た。いつもなら、どっしりと構えている南像から落ち着きがなくなっていた。
「まあ、落ち着きなさい。南像くん、さっき話したのはあくまでも、わしの推論であるということを忘れぬようにのう…」
「それでは、ひとつあなたにお聞きいたしますが、須部田博士。あなたはあの幽霊島の撃退方法を、すでに察知されているのではありませんか…。それを何ゆえにか、私たちには隠しておられる…。そうなのでしょう。博士」
何を思ったのか、南像はいきなり須部田を問い詰めてきた。
「な、何を云うのかね。南像くん…、藪から棒に…。わしがそんなことを知ってたら、とっくに手を打っておるわい。そうは思わんかね。南像くん」
「すみませんでした…。博士、私も云い過ぎたようです。これまで、私たちもやることなすこと、すべて裏をかかれていまして、ついイライラが募っていたのでしょう。どうぞ、お許しください…」
南像も自分の中に蓄積された、重圧のようなものを拭い払うように詫びた。
「よろしい、南像くんにそこまで云われては、わしも後味が悪くていかん。もう行くまいと思っておったが、この辺で死に花を咲かせてみようかのう…。
おい、海原。船田はどこじゃ、すぐに呼びなさい。わしはもう一度、あの幽霊島に行くことにした。すぐに呼んできなさい」
そう言いつけると、須部田は自分の座っていた椅子から、高齢者とは思えないほどの素早さでシャキッと立ち上がった。これを見ていた高井戸は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか…。博士、そんなに急に立ち上がったりして…」
「何を云うておる。高井戸くん、南像がこの老骨に久々に火をつけてくれ負ったわい。
これぐらいのことでは、まだまだ君たちに引けは取らんぞ。ええーい、船田はまだか。どこに行きおったと云うのだ…。このクソ忙しい時に…」
こうして急転直下、須部田博士は老骨に鞭打つようにして、幽霊島に再び向かうことが決まった。須部田邸内ではふたりの助手たちが、てんやわんやの騒ぎで外出準備に取り掛かっていた。
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