第37話

 今、なんて?

 撫子の口から、想像もできないような言葉が飛んできて思わず俺の思考はフリーズした。


「兄さんの度胸を試しているんです。どうせ、できないでしょうけど」


 唇を尖らせてぼそぼそと言う撫子は、こちらの様子を伺うように上目遣いで覗き込んでくる。


「……」


 これは良くない。

 非常に良くない状況だ。

 撫子の中でどういう心境の変化があったのかは分からない。何を思ってこんなことを言っているのかも分からない。


 問題は、こんなことを言っていること自体にある。

 俺は答えを見つけれずにいた。

 神楽坂撫子ではなく、四条撫子への気持ちへの向き合い方。かつて俺が好意を寄せていたクラスメイトとどう向き合っていくのか、ずっと考えている振りをして、ずっと答えを出すのを先延ばしにしていた。


 だって、普通に考えて“そう簡単に踏ん切りがつけれるはずがない”じゃないか。

 だから俺はその問題から目を背けていたのだ。

 兄妹として接することだけに、全てを費やしてきた。

 そうして、何とかこれまでやってきたのだ。


 ――なのに。

 お前がそんなことを言うのなら、俺は自分の気持ちに蓋をする必要なんてないんじゃないのか? 困らせてはいけない、そう思ってずっと気持ちを押し殺していたのに。


 何のつもりなんだよ。


「できない、んですか?」


 もしここで俺が撫子の言葉を受け入れたら。

 親父はどう思うだろうか? 晴子さんは何を思うだろうか?


「やって、やる」


 もうどうでもいい。

 俺が、俺だけがここまで苦しい思いをする必要なんてない。


 テレビの音が聞こえないくらいに、俺は周りの音が気にならないようになっていた。ここにいるのは俺と撫子だけで、邪魔するものも何もない。

 ただ、感情が示すままにしてやればいい。


「……」


 俺はゆっくりと顔を近づけた。

 前のめりでいた撫子は、やがて目を閉じる。


 その時、もうどうしようもないほどに俺の中から欲望が溢れ出てくる。

 好きな女の子が目の前で待っている。俺はただそれに応えればいいのだ。


 やがて俺達の顔の距離は数センチまで接近する。


 撫子の息遣いが伝わってくる。ドクンドクン、と心臓が高鳴った。いつもよりもずっと速く脈打つ鼓動が俺の緊張を現している。いや、もしかするとこれは撫子の心臓の音なのではないか? そう思えるくらいに、俺と撫子の距離は近づいていた。


 あと少し。

 あと僅か。

 あと、ちょっと。


「……」


 そこまできて、俺はついに目を瞑る。

 だけど。

 俺と撫子の唇は重ならなかった。

 撫子が逃げたとか、そういうことじゃない。彼女は今もきっと俺のすぐ前で、俺のキスを待っている。


 その原因は俺だった。


 あと一歩というところで、俺の体が動きを止めたのだ。俺の気持ちとは関係なく、脳がそう命令していた。


 そう。

 結局、俺はいざというときの一歩を踏み出せない。

 撫子の言った通りなんだ。


 図星だったから、カチンときたのだ。言い当てられたようで、見透かされたようで、心の中を覗き込まれたようで、怖いとさえ思った。


 自分の全てが見られているのではないかと思った。


 真っ暗の視界の中で、俺は諦めた。


 無理だ。

 この先にいくには俺には心の準備ができていない。これ以上のことをする覚悟が、今の俺にはなかったんだ。


「やっぱりね」


 残念そうな声が聞こえた。

 諦めたようにふんと鼻が鳴った。俺ではない、前にいる撫子のものだ。

 これだけのことをして、結局何も出来なかったのだ。そりゃ笑われても仕方ないだろう。俺はそんなことを思いながら目を開けようとした。


 その時だった。


「……っ」


「……んん」


 唇に、何か柔らかいものが当たった。

 何か柔らかいもの、なんて曖昧な表現を使ってはみたものの、しかし俺はそれが何なのか分かっていた。


 それは、撫子の唇だった。


 柔らかくて心地よい。

 不思議な感覚に包まれた。


 時間にすればほんの一秒二秒程度のことだったのだろうが、俺が感じた時間の流れはそれよりも遥かに長いものだった。まるで時が止まったとさえ思うほどに。


「……なで、しこ」


 湿った唇が離れ、俺は恐る恐る口を開く。

 言いながら、俺はゆっくりと目を開いた。


「……」


 そこにあったのは、頬をめいっぱい朱色に染めた撫子の顔だった。



 * * *



 どこで何を間違えたのだろうか。


 いや、そもそも間違いなのだろうか。


 もし仮に親父と晴子さんが結婚しなければ、俺と撫子は兄妹になることはなかった。


あの日の告白はもしかすると成功していたかもしれない。そうすると、何も気にすることなく撫子と思う存分愛を確かめ合うことができただろう。


 もし、花宮椿の好意を受け入れていれば。

 尊にああだこうだと言われながらも二人でいる時間が増え、最初はぎこちないデートを繰り返していくうちに、やがてクラスでも噂になるくらいのカップルになっていたかもしれない。


 もし、南戸水琴の好意を受け入れていれば。

 きっと彼女の言動は変わらない。俺が合わせることになるのだと思うが、それでもきっと楽しい毎日が続くのだろう。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に喜ぶ。まさしくパートナーと呼ぶに相応しい、そんな関係になるのだと思う。


 もし、天王寺紗千香の好意を受け入れていれば。

 学校でも随一の人気を誇る彼女の彼氏となれば校内の男子生徒から殺意の眼差しを向けられることだろう。そんなことでさえ先輩はネタにしてからかってくるのだと思う。それでも互いに思い合って、それはきっと幸せな時間を過ごすのだろう。


 そんな、あったかもしれない例えばやもしも。

 考えたって意味のないことだ。


 だって、この現実はあってはならない間違ったものだろうから。

 俺がただの神楽坂遊介であって。

 彼女がただの四条撫子であったならば。

 きっとこんな思いはせずに済んだのだろう。


 いつか晴子さんに聞かれたことがあった。


『遊介くんはどう? 撫子と兄妹になったこと、後悔していないかしら』


 今なら分かる。

なぜあの時、俺はすぐに答えることができなかったのか。

 俺はその答えが、分からなかったのではない。

 分かっていたからこそ、答えることができなかったのだ。

 

 ――あの日、願うことさえしていなければ。


 ――こんなことにはならなかったのか。


 ――ただ、つまらないと感じていた日常が続いていただけなのか。


 俺は、ぐちゃぐちゃになった感情を押し殺すように目を瞑り、

 そして、眠った。



 桜舞うあの時に戻れるのならば、俺は――。

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告白したクラスメイトが義理の妹になった。モテ期なんてこなければよかったのに! 白玉ぜんざい @hu__go

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