第36話

 両親は週に一度外食をする。

 なのでその日は夫婦水入らずにするために俺と撫子は二人で家に残るのだ。


「……」

「……」


 撫子は料理が若干苦手なので、基本的に晩飯は俺が作る。

 今日も今日とてそれは同じだ。俺が作り、晩飯は二人で食べる。


「洗い物はわたしがします」


 食事中は終始無言であったが、食べ終わった撫子はそう短く言った。


「そっか、ありがと」


 正直、やや気まずい。

 どう話しかけていいか分からない状態が今も続いているのだ。

 怒っている、わけではないのだと思う。怒られる道理がないからだ。ただ、お互いにどう接していいのか分からなくなっているような感じなんだと俺は思っている。


「……」


 カチャカチャと、皿が重なる音が流し台の方から聞こえてくる。

 ちらと時計を見ると、もうすぐドラマが始まる時間だった。

 以前撫子が見ていた君色景色というドラマを一緒に見てから、続きが気になり何となく今でも見ている。


 撫子は部屋に戻り、後日録画を観るというスタイルなのでこのまま俺がリビングで観ても問題はないだろう。

 俺はテレビをつけてチャンネルを合わせる。まもなくして、ドラマは始まった。


 少しすると水を音が止む。皿洗いが終わったのだろう。

 そのまま二階に戻るだろうと踏んでいたが、一向に階段を上がる音は聞こえない。どころかリビングから出ていく気配すら感じられなかった。


「……隣、いいですか?」


「うえ!?」


 そして、突然声をかけられたものだから俺は変な声を出してしまう。


「あ、ああ」


 ソファに座っていた俺は撫子が座れるだけのスペースを開けるために横にずれる。すると撫子は俺が開けた場所に座り、そのままじいっとドラマを観始めた。


「……」


 互いに無言のまま、ただドラマを観るという時間が続いた。

 何なんだ? いつもならば部屋に戻るのに。リアルタイムで観ることなんか早々ないじゃないか。なのに何で今日に限ってリアタイ視聴なんだよ。


 視線はテレビにいっているが内容は全く入ってきていなかった。隣に座る撫子の様子が気になるが、横を向くのは躊躇う。かといってあっちから話しかけてはこないので、解決しないままそんな時間が続いた。


 そんなことをぐるぐる考えていると、いつの間にかドラマは終わっていた。

 そんなことにも気づかないくらいに俺はぼーっと考え事をしていたようだった。


「兄さん」


 そして、声をかけられ俺は怯えるように体を震わせた。


「なんだ?」


 平然を装ったつもりだったが少々声が裏返ってしまった。動揺しているのが丸わかりで恥ずかしい。


「兄さんはキス、したことありますか?」


「へ?」


 何その質問。

 さっきのドラマで恋人同士がキスをするシーンは確かにあったけれど、その流れでこんな会話する? しかも結構気まずい空気をお互いに感じているときにだぜ?

 キスしたことあるかだって? んなもんもちろんねえよ。彼女すらいたことないんだから、キスなんてできるはずもない。


「そりゃ、ないけど」


「そうですか、そうですよね」


 どういうリアクションなのそれ。ふっと小さく息を吐きながら、撫子はぼそりと呟く。そうですよね、と言われるのも何か心外なんだけど。


「いやまあ、俺だってキスくらいできるけどな」


 男としてのプライドはまだ俺の中に眠っていたようだ。撫子の態度にそのプライドが触発され働いてしまった。ただ、見栄を張っただけなのだが。


「あの三人とですか?」


「……う」


 言われて俺は押し黙る。

 俺は鈍感系主人公とは違う。なので人からの好意くらいはある程度察しているつもりだ。花宮椿も、南戸水琴も、天王寺紗千香も、俺にそれなりの好意を寄せてくれているのだと思う。


 俺がその好意を受け入れれば関係は発展するだろう。

 けれど、気持ちの整理がついていない俺にそれをする資格はない。そう思い、俺はその答えから逃げていた。


 気持ちの整理がついていないと自分に言い聞かせてきたのだ。


「ああ、まあそうだな」


「確かに、兄さんがその気になれば三人は受け入れてくれるかもしれません」


 冷静に、静かに、淡々と、撫子は言葉を繋げる。


「ですが、それは無理です」


 しかし、繋がった言葉は俺の想像していたものではなくなった。肯定的だった言葉は、途端に俺を否定するものに変わった。


「なんでそう思う?」


「分かりませんか?」


 言いながら、撫子はこちらを見る。

 じいっと、俺の瞳を見つめてくる。彼女の瞳に写る自分と目が合っているような気がするほどに。

 それは、と撫子はゆっくりと口を開いた。


「兄さんに、それだけの度胸がないからです」


 全てを見透かしているような撫子の目に、俺は一瞬ドキリとしてしまう。

 その心臓の高鳴りの原因は何なのだろうか。言い当てられて焦っているのか、感じたことのない気持ちに恐怖しているのか、それとも――。


「んなこと、ないぞ。俺だってやるときはやる」


 はずだ……。

 今までだってそうしてきたし。

 そう自信を持って言い切ることは出来なかった。やるときはやる、俺は自分にそんな評価を抱いてきたし、実際に何だかんだと言いながら何とかなってきた。しかし、それは結局結果論でしかない。


 俺のそれは“やった”のでは“やらざるをえなかった”だけだ。

 やらざるを得ない状況に陥り、逃げ場を失い向かい合い、そして何とかなった。

 それだけ。


 たぶん、それをやるときはやるとは言わない。


「女の子にキスをする度胸が兄さんにあるということですか?」


「おう」


 再確認するようなことを言う撫子の瞳は鋭く、俺の瞳を捉え続ける。まるで磁石と磁石が引き寄せ合うように、俺は視線を逸らせなかった。


「だったら」


 ぼそり、と呟いた撫子はふいと顔を背ける。

 蛇に睨まれていた蛙のような状態だった俺は、そこでようやく一瞬の間だけ緊張感から解放された。


 ほうっと安堵の息を漏らした俺だったが、ずいっと身を乗り出してきた撫子にすぐさま引き戻される。



「わたしに、キス、してみてください」



「……え?」

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