第32話

「それで、楽しい時間を過ごしたわけですか」


「なんでちょっと不機嫌なんだよ」


 天王寺先輩との時間を終えた俺は次なる相手である撫子と一緒にいた。

 埋め合わせ、というのが目的であるならば撫子との時間は不要なのではないか、とも思ったが「わたしも埋め合わせを受ける権利はあるはずです」と言われ、俺は今こうしている。


 さっきまで何をしていたのかと聞かれたので順を追って話すとこの次第である。


「別に不機嫌じゃないです。勘違いしないでくださいっ」


 それはお前の役割じゃないぞ。椿が最近ツンデレ属性薄まっているからってお前がそれ取るとツンデレ義妹っていう最強の属性が完成してしまうからやめような?


「ならいいけどさ。それで、どこに向かってんの?」


 俺は歩く撫子について行っているだけ。

 どこに向かうのかも、どこに向かっているのかも知らない。


「この施設、水着で入れるお風呂があるみたいなんです」


「へえ、そんなのあるんだ」


「みたいですよ。せっかくなので行ってみようかと」


 悪くないな。

 この施設にはプールとは別に大浴場があるので、どうせこの後入るだろうと思い諦めていたが、そういう提案があるのならばぜひとも行ってみたい。こう見えて実は結構お風呂好きなのだ。


「ところで」


 やはり不機嫌なのか、若干むすっとした様子で撫子が口を開く。

 視線は前を向いたまま、言葉だけを俺に投げかけてくる。


「女の子が水着を選んで着てきたというのに、可愛いの一言もないとはどういうことでしょうかね」


「……え」


「天王寺先輩と南戸さんはどうか知りませんが、少なくともわたしと花宮さんが出てきたときは何の感想もなかったです。花宮さんが一人のときに褒めていたのならば知りませんが」


「いや、言ってないっす」


「女の子はそういう言葉が欲しいものなんです。みなさん兄さんに好意を寄せているわけですし、好きな男の子から水着を褒められると嬉しいはずです。そういうところに気が回らないところ、まだまだ女心を勉強するべきですね」


「はあ」


 急にどうしたんだ?

 そりゃ感想言わなかったのは悪かったかもしれないけど、俺女子と遊ぶとか今までに経験ないですし、そんなルール知らないからな。これからは気をつけるとして、ここをどう乗り越えるべきか。


 これからは皆を褒めまくるよ、とか言えばいいのかな?

 ……いや、違うな。


「その水着は似合ってると思うぞ」


「……ありがとうございます」


 俺が言うと、撫子は小さな声でそう言った。

 俯いていたので聞こえづらかったが、そう言っていることは分かった。


「これからはそれがすぐにできるようになってください」


 またしてもつんとした言い方だったが、撫子が放つ雰囲気に刺々しいものはなく、どころか柔らかい空気すら感じた。


 どうやら機嫌は直ったらしい。

 助かった。


「ここか」


 そんな話をしているうちに目的地にたどり着く。

 真ん中に円形の大きな浴槽。その周りにもいくつか設置されている。複数人で来ている家族や友達なんかは真ん中の大きな浴槽でくつろいでいる。


「そんじゃ入りますか」


「どこに行くんですか」


 俺が大きな浴槽に向かうと、撫子がガシッと肩を掴んでくる。俺は体勢を崩して転びかけるが何とか耐えた。


「どこって、風呂だろ?」


「わたし達が行くのはこっちです」


 言いながら、撫子は俺の手を引いて小さな浴槽の方へと向かう。

 浴槽は大人ならば二人、子供であれば三人から四人程度入ることができるくらいの大きさだった。周りを見ると、子供を連れた家族か、女子同士の少人数の友達同士、あるいはカップルが利用していた。


「何か問題ありますか? わたし達は家族ですが?」


「いや、そう言われると問題はないんだけど……」


 俺が渋っていると撫子は先に浴槽に入り、肩まで浸かる。


「忘れてないですか? 今日は妹サービスの日ですよ」


 そうだった。

 三人に遭遇したことですっかり忘れていたが、そう言えば今日はそんないかがわしいサービスに聞こえる名前の接待をする日だった。


「いや別にお前がいいならいいんだけどさ」


 それなりに狭い浴槽。

 そりゃ何もかもが密着するわけではないけれど、それなりに体は接してしまうわけで。


「……」

「……」


 撫子に続き、俺も浴槽に入る。

 すると肩と肩が触れ合う程度には体が接してしまう。


 多分、本来は向かい合って入るんじゃないかな。でも向かい合えば今以上に体は密着するだろうし、結局これ以外に入る方法はない。肩くらいは我慢しよう。


「やっぱり狭いな」


「そうですね」


 俺が言うと、撫子も落ち着いた様子で答える。

 自分から言っているのだから当然大丈夫だろうが、不快感とかは覚えていなさそうだ。これで気持ち悪いから離れてくださいとか言われたら怒るぜ。いやそれ以上に凹むけど。


「これが家族の距離、なんですかね」


「家族の距離?」


 他の浴槽に入っているとある家族を見ながら、撫子が呟く。


「あの家族のように、ここに二人で入れば家族の距離を感じることができるのかと思いました」


「どうなんだろうな。まあこれだけ近いんだし、そうなんじゃないか? まあ、周りからすれば家族って言うよりは――」


 言おうとして、俺は慌てて口を閉じた。

 その言葉は口にしてはいけないような気がしたから。

 その言葉を口にしてしまうと、俺の中にある何かが壊れてしまう。それが壊れてしまうと、閉じ込めていた感情が溢れ出てしまう。


 そうなると、もう止めることはできないだろう。

 だから、口にしてはいけない。


「兄さん?」


「あ、いや、何でもない。きっとさぞかし仲のいい兄妹に見えてるだろうなと思ってさ」


「……兄妹、ですか」


 ぼそり、と撫子は小さく呟いた。


「そうだ撫子! あれやろう、ウォータースライダー」


 俺は何とも言えない空気に耐えかねて立ち上がる。

 ちょうど目に入ったのは大きなウォータースライダーだったので咄嗟にそんなことを言ってしまう。


「ウォータースライダー、ですか?」


 戸惑いながらも、撫子も俺の視線を追って大きなスライダーを見る。

 他の施設のスライダーの大きさを知らないので比較することはできないけど、だとしてもあのスライダーは間違いなく大きい。あれでもし小さいというのであればスライダー界の常識を疑うレベル。


「わたし、ああいうの乗ったことないんですよね」


「そうなのか?」


「ええ、まあ。そもそもプールに来る機会もあまりなかったので」


 俺の周りプール経験少ない人多すぎない? 俺を含めてだけれど。

 誤魔化すために言ったとはいえ、それでも口にしてしまった以上乗らないわけにもいかない。撫子が乗り気でないなら行くこともなかったが、そうでもなさそうだ。


「行くか?」


「ではせっかくなので」

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