第31話

 この施設の流れるプールは中々に大きい。

 それに加えてジェット噴射やちょっと深い場所など、エリアがバラエティに富んでいる。


「何もしなくていいんですか?」


 俺は今、その流れるプールにいる。

 流れに乗って、ただ流されるだけの時間を過ごしていた。


「いいの。私は後輩くんと二人でなら何だっていいんだから」


 椿のターンが終わり、次の順番だった天王寺先輩の埋め合わせの時間。

 先輩の要望は一緒に流れるプールでゆっくりしようというものだった。どこからかレンタルしてきた浮き輪を膨らませ、それに乗った先輩と一緒にただ流れているだけ。


「俺はてっきり、馬車馬のごとく働かされるものかと思いましたよ」


「毎度言うけれど、私のイメージどうなってるの?」


 呆れるように言った先輩は、ちゃぷと水に手を付けた。

 浮き輪の穴にお尻を入れているので、好きなように身動きは取れない様子だったが、それくらいは当然できる。


「どうかしたんですか?」


「……なんでもない」


 手で掬った水を眺める先輩は、どこか懐かしむような顔をしていた。そのセンチメンタルな表情が美しさを彩っているように思え、俺は思わずどきりとしてしまう。

 何でもない時間だった。


 盛り上がるでも、遊ぶでもない、ただ時間が流れるだけ。それでも、先輩はどこか満足げな表情をしていた。これだと、埋め合わせをした気にならないな。

 なんて思っていた、その時だ。


「お」


「ひゃっ」


 壁の両端にジェット噴射の機械が装着されているエリアに入ったためか、さっきまでに比べて流れが急で強くなった。流れが変わる一瞬で先輩の乗った浮き輪がバランスを崩す。

 浮き輪はひっくり返り、先輩はプールに落とされてしまう。


「先輩、大丈夫ですか?」


 俺はとりあえず近くにあった浮き輪を掴み、その後に先輩の姿を探す。

 しかし、一向に先輩の姿は見えない。

 そこまで深いプールでもないので溺れる心配もないだろうけど、ここまで姿が見えないのは少し心配だ。


 俺は潜って先輩の姿を探す。

 すると、きゅっと目を瞑り手探りで何かを掴もうとしている先輩を見つけた。

 まさか、と思いながらも俺は先輩の手を掴んだ。

 そしてそのまま浮上する。


「ぶはっ、大丈夫ですか先輩」


 俺の声を聞いて、安心したのか先輩はぐっと俺の体を引き寄せて抱きついてくる。先輩のいろんな柔らかい部分が体に密着している。これは色々とヤバい。


「はぁ、はぁ……」


 浮き輪を差し出し、それに掴まった先輩はようやく息を整えて落ち着いた。顔についた水滴を拭って、俺の顔を見る。その顔はひどく恥ずかしそうだった。


「大丈夫、ですか?」


「ううん、大丈夫とは言えなかったかな。ありがと」


 とりあえず落ち着くためにも一度、俺達はプールを出た。

 近くにあったベンチに先輩を座らせて、俺は飲み物を買いに行く。

 天王寺紗千香と言えば、運動神経抜群おばけだ。それは一緒に遊んだときに嫌というほど見せつけられた。


 なので、まさか先輩が泳げないなんてことは考えもしなかった。


「でも、たぶんそうだよな」


 さっきの様子を思い出しながら、俺は一人ごちる。

 さっきのベンチまで戻ると、先輩の前に二人の男がいた。嫌がっている先輩の顔を見るに、恐らくナンパだろう。あれだけ綺麗な人がいたら、そりゃ声もかけたくなるか。


「あの、すいません」


「あァ?」


「何ですかァ?」


 ややチャラめの二人だ。

 喧嘩になったら絶対に勝てないだろうな、と思えるくらいには外見も怖めなお兄さん二人組に俺は思い切って声をかける。

 すると案の定、逆ギレめいた返しが飛んできた。


「その人、僕の知り合いなんですけど」


「だから?」


「ンなこと知らんけど?」


 いや引けよ。

 ああやべえ怖い。これで引いてくれなかった場合のことを考えてなかったが、このまま行くとお約束の展開になるのではなかろうか。

 俺は水琴を助けたときのことを思い出す。どうしてこう、不良さんと縁があるのだろうか俺という人間は。


「ここは穏便にいきませんか? 周りに迷惑かけるのも何ですし」


「そうだな」


「じゃあお前さっさと失せろよ」


 なんで俺が失せなきゃなんないんだよ。その人俺の連れだって言ってんだろうが。と口にできればいいのだが、そこまでの度胸は俺にはない。


「いや、だからですね」


 ここまできて痛い目にはあいたくないな。ここは何とか穏便に済ませたいけど。

 考えながら、相手をしていると、ベンチに座る先輩が大きく溜め息をつく。そして立ち上がって俺の腕を持って組んできた。


「せっかくのお誘いなんだけど、ごめんなさいね。彼との先約があるので」


 そう言い残して、先輩は俺の腕を引っ張ってその場を離れようとした。追いかけてくるかと思いきや、ぼけっと突っ立ったままの二人を見て、俺も慌てて先輩を追う。

 何であいつら急に諦めたんだ?


「ああいうのは、きっぱりと断ったら案外もろいものよ」


「……じゃあさっさと断ってくださいよ。俺色々と覚悟しちゃいましたよ」


「ごめんね。私のために頑張る後輩くんを見ていたかったから」


 この人鬼か。

 普段の行動から見て取れるがドSだ。間違いない。


「これ、ドリンクです」


 別のベンチを探して、座った先輩にドリンクを渡す。

 俺もその横に座る。


「一人にするべきじゃなかったですね」


「んー、でも嬉しかったよ。私に気を遣ってくれたんだし」


 暫し無言をドリンクを飲んだ後、話題は少し前に遡る。


「ところで先輩」


「なんでしょうか?」


「さっきの、プールでの件ですけど」


 俺がそう切り出すと、先輩はああーと憂鬱そうな顔をする。


「驚いた?」


「まあ、それなりに」


 観念したように聞いてきた先輩は、そのまま言葉を紡ぐ。


「子供の頃にね、一度溺れたことがあるの」


「はあ」


「それまでも別段泳げたってわけでもないんだけど、それからはもう水が怖くてね。もちろんお風呂とかは大丈夫なんだけどね、プールとか海はどうも苦手になっちゃって」


「学校の授業とかどうしてたんですか?」


「そりゃあもう誤魔化し誤魔化しやってるわよ」


 どうやっているのかは聞かないでおこう。


「どんなスポーツでもこなす私が、泳げないっていうのはちょっと恥ずかしいでしょ?」


「んー、どうですかね」


 恥ずかしいといえば確かにそうなのかもしれない。

 それを吐露する側からすれば自分の弱点を晒すことになるわけだし、恥ずかしいというのも分からなくもない。

 けれど。


「俺的には、先輩の弱いところが知れてラッキーみたいな感じですけど」


「なによそれ、弱みを握って私に何をするつもりなのかしら?」


 あくまでも挑発的に、先輩は俺に聞き返してくる。


「いやいや、やっぱり完璧超人よりは弱点ある人の方が親近感も湧きますし、弱い部分を知れて、俺は先輩と少し近づけた気がしますよ。ああこの人も俺みたいにダメなものあるんだなって」


「そういう風に言ってくれるのね」


 ストローを口にして、ぼそっと先輩は呟いた。

 別に、変なことは言っていないと思うけど。どういう意味だろうか?


「ん? そうね、バレちゃったついでにちょっとだけお話してもいい?」


「もちろん」


 俺が不思議そうに見ているのに気づいた先輩は、優しい笑顔を浮かべてそう言った。何を語るのか、それは俺にも分からない。


「自分で言うのも何だけれど、私って何でも卒なくこなしちゃうのよね。スポーツは見ての通りでしょ? 勉強も、凄く得意ってほどでもないけどそれなりにはできる少なくとも赤点は取ったことないし、基本的にテストは平均点以上は取るわ」


 この人勉強もできるのか。

 何となくイメージの話だけど、運動神経いい奴は勉強が苦手だと思っていた。どうしてかと言われると、漫画とかではそうだからとしか言えない。


「小学生になった頃くらいから、何となく自覚し始めたの。私が自分で分かるくらいなんだから、周りの大人はもちろん気づく。親や、先生とかね」


 先輩は一度言葉を切り、ドリンクで口を湿らせる。


「それに気づいた大人たちは私に期待する。小さい時の私はそれに応えなくちゃ、なんていう気持ちはなかったけれど、期待に応えるだけの力はあったし、やれば褒められたから張り切ってやったわ。褒められるのは嬉しかったから」


 先輩はプールサイドを走る子供に目をやる。

 その視線は懐かしそうであり、羨ましそうでもあった。


「小学生の高学年にもなれば、期待されているということに気づく。そうすると、ついに私は期待に応えることを意識し始めたわ」


 何も考えずに遊ぶ子供が羨ましかったのか。自分の過去がそうでなかったから?

 だとしたら、どんな子供時代を送ったというのか。


「それでも私は期待に応えた。それだけの力があったから。それを続けていると、周りが私に求める期待値は次第に高くなっていく。最初は親や先生だけだった、今では周りの友達やクラスメイトまでもが、私に期待しているの」


「はあ……」


 期待、か。

 俺は今まで、そこまで大きな期待をされたことはないのだと思う。


 期待されるということを、俺はうまく想像できない。他人事のように言えば、期待されるのは良いこと、だろう。人に何かを求められるなんて、それだけで生きている意味があると思えるのだから。


 でも、実際に期待される人は、俺のような人間には想像もできないような悩みを抱えているに違いない。

 それが分からないということは、やはり俺は大きな期待を受けたことがないのだろう。


「だからいつも肩肘張って、窮屈な生活を送っているの。まあ、別にそれが嫌ってわけじゃなくてね、たまにちょっと疲れるの」


 だから、と言って先輩は俺の肩にゆっくりと頭を置いた。


「……あの、先輩?」


 俺は上ずった声で先輩を呼ぶ。

 しかし、すぐに返事はなかった。


「ごめんね、ちょっとだけ甘えさせて」


 肩の辺りから、先輩の体温を感じる。

 髪が何だかくすぐったくて、でも何故か心地よい。結局、どうすることもできないまま時間は経過する。


「弱さを見せれる人がいるっていうのは、幸せなことなのね。それだけで心が楽になる」


「……それは、光栄です」


 もしかすると、この世界に完璧超人なんていないのかもしれない。


 それはただ、周りの人間が作り出した幻影でしかなくて、当の本人はその期待に応えることが辛いと思っていて、けれどそれを言うことができないでいる。


 弱さを見せることもできずに、ただ気丈に振る舞っているだけ。

 その残酷なまでの期待は、もしかするといつかその人を壊しかねない。


「……すう」


 もし俺にできることがあるのならば、できるだけのことはしよう。

 いつの間にか眠ってしまった先輩を見ながら、俺はそんなことを思った。

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