第25話

「これ、あげるわ」


 神楽坂撫子はリビングにお茶を飲みに行った際に、母である晴子に呼び止められた。

 手渡された紙切れに視線を落とす。


「なにこれ」


「最近できたんだって」


 表と裏を見ると分かるが、プールの入場券だった。


「旅行に行かせてくれたお礼ってわけでもないけどね」


「別にいいのに」


 ぐいっとお茶を飲みながら撫子は言う。


「遊介くんにも同じものを渡しているわよ。母親的には二人で行って欲しいところだけれど、さすがにそこまでは強要できないしね」


「んー」


「最初に比べれば二人とも仲良くなっているし、二人のペースで家族の愛を育んでくれればいいわ」


 父親である啓介はまだ帰ってきておらず、兄である遊介は自室にこもっている。

 思い返せば、晴子と啓介が再婚してからこうして母と二人きりで話すことはなかったような気がする。


「私ね、悪いことしたんじゃないかと思っていたのよ」


 晴子がぽつりと話し始める。


「今回の再婚のことね」


 撫子の方は見ていない。

 視線はテレビの方に向いたままだった。


「急だったでしょ? あなたに話したの」


「……うん」


 撫子が再婚のことを聞かされたのは、顔合わせの一週間ほど前のことだった。

 聞いた当時は驚いた。けれど、嫌だとは全く思わなかった。


「言い出せなかったのよ。あなたに否定されたらどうしよう、そう思うと怖くてね」


「わたし、そんなこと言わないよ?」


 撫子が言うと、晴子は「でしょうね」と言いながら撫子の方を見る。


「あんたは優しいからね。きっと心の中では嫌だと思っていても、笑顔で許してくれると思っていたわ」


 父親は撫子の幼いときに病気でこの世を去った。

 顔を覚えていないこともないけれど、かといって大きな思い出もない。それくらい小さい頃の話なのだ。


 それからは母と二人で暮らしてきた。母は仕事に出て、家のことは撫子が行っていた。

 自分のためにずっと頑張ってきてくれた母が、ようやく新しいスタートを切ろうと言っているのだから、それを祝福しないはずがない。


「急にお父さんができるってだけでも困るだろうけど、相手に同い年の男の子がいるもんだから、それはもう驚いたでしょ?」


「それは、まあ」


 そこだけは、戸惑った。

 しかも、その男の子から数時間前に告白されていたのだから尚の事だ。

 けれどそれはもう昔のことだ。


「それに同じ学校だしね。きっと、苦労かけたと思うわ」


「ううん、まあ」


 そこに関しては否定しなかった。

 苦労したのは事実だからだ。


「最初の頃の遊介くんとあなたを見てると、自分の選択が正しかったのか分からなくなったわ」


 悲しそうな顔をしていた晴子だったが、その次にはにこりと笑う。


「けどね、今はもうそんなこと思っていないのよ。それは、あなたと遊介くんが仲良くしてくれているから」


「うん」


「兄さん、だなんて呼んじゃってね」


「んもう!」


 言われて、撫子は顔を赤くする。


「少しずつ、あなた達のペースでいいの。仲良くなってくれればそれでいい。もし、あと一つ願いが叶うのならば」


 一度言葉を切った晴子に、撫子は首を傾げる。


「あなたに、この家族と出会えて幸せだったと、思ってほしいわね」


 照れくさいのか、撫子と視線は合わせなかった。

 こんな話をするとは思っていなかったので、頭が回らず言葉が出てこない。


「……大丈夫だよ」


 それでも何かを言わなければならない。

 撫子は言葉を絞り出す。


「だって、わたしもう後悔なんてしてないよ? ママと啓介さんが再婚したこと、遊介くんが兄さんになったこと。何一つ、後悔してない」


 そう。

 その言葉に嘘はない。

 きっと兄妹になっていなければ、遊介のことをここまで深く知ることはなかった。

 もしあの時、告白の返事をすぐしていたら。

 もし遊介が、啓介の息子でなかったら。

 もし遊介と、兄妹という関係になっていなかったら。


 ここまで彼のことを知り、思い、好きになることはなかっただろう。


 この気持ちとどう向き合うのかは置いておくとしても、晴子の選択が、現在の関係が間違っているとは思わない。

 ただ自分がどう在るべきなのか、それは今でも考ている。


「……兄さん、まだ起きてるかな」



 * * *



 少女たちがそれぞれ思いを抱いている頃、神楽坂遊介は自室でベッドの上に寝転がっていた。


「……最終日か」


 カレンダーを見ながら呟く。

 ゴールデンウィークは結局二日目の撫子とのドタバタを除けば特に何もなかった。

 花宮椿、南戸水琴、天王寺紗千香の三人から誘いはあったが、すっかり忘れていた。


 というのも、二日目の夜に撫子の更衣シーンに遭遇してビンタを受けたことですっかり忘れていたのだ。


 今更連絡を返すのもどうなのだろうかと悩んでいたら最終日になっていた。

 三人にはゴールデンウィークが明けてから埋め合わせをすることにしよう。遊介はそう考え、明日も精一杯ダラダラすることにした。


 コンコン。


「ん?」


 ドアがノックされた。


「兄さん、まだ起きてますか?」


 ドアの向こうから聞こえてきたのは撫子の声だった。

 遊介が返事をすると、撫子はゆっくりとドアを開いて顔を覗かせる。


「入ってもいいですか?」


「ああ」


 撫子は恐る恐るといった感じで部屋の中に入ってくる。

 ベッドに座る遊介と向き合うように床に座る。彼女も風呂上がりなようで、いつも寝間着にしているダボッとしたシャツを着ていた。下にショートパンツは穿いているのだろうが、シャツに隠れて見えないため、妙にドキドキしてしまう。


「どうしたんだ、珍しい」


 撫子が遊介の部屋に入ってくるのは珍しい。

 まだこの家に引っ越してきてから一ヶ月ちょっとだが、回数にすれば一回か二回程度。


「いえ、ちょっとお話がありまして」


「そんな改まって」


 緊張しているわけではないだろうが、やけに畏まった様子なのが気になった。


「明日は何かご予定ありますか?」


 こほん、とわざとらしく咳払いしてから撫子は話し始める。


「いや、特にないけど。最終日くらいダラダラしようかなくらいに思ってた」


「最終日くらいって、ずっとダラダラしていたじゃないですか……」


 呆れるように言った後、撫子は視線を逸らしながら遊介に紙切れを見せてくる。


「これ、兄さんももらいましたよね?」


 よく見ると、プールの入場券だった。確かに今日、晴子にもらった。


「ああ、もらったけど。欲しいの?」


「違います。どうしてここまで言って察さないのでしょうかこの兄さんは……」


 はあ、と大きく溜め息をついて撫子はじっと遊介の目を見る。


「ゴールデンウィーク最終日、妹サービスをしてもいいんじゃないですか?」


「なにその破廉恥そうなサービス」


「家族サービスの妹バージョンです!」


 撫子が顔を赤らめて否定してくるので、遊介は小さくああと呟いた。


「なぜ俺がその妹サービスってのをしなくちゃいけないの?」


「それはあなたがわたしの兄さんだからです」


「答えになってねえ……」


「兄さんの持っている漫画ではそうなのでしょう?」


「偏見すごいな……いや、別にいいけどさ」


 断る理由もないんだけれども。

 遊介がそう言うと、撫子は表情を明るくする。


「言質取りましたよ。では明日、一緒にここに行きましょう」


 言いながら、撫子はプールの入場券をひらひらと見せつけてくる。


「え、プールに行くの……?」


 家でダラダラするものだと思っていた、と驚きの表情を見せる遊介に撫子はまたしても大きな溜め息をついた。


「話の流れから察してください。せっかく同じ券があるのですから一緒に使うべきです」


「いや一概にそうとは」


「使うべきです!」


「あ、はい」


 撫子の迫力に負けた遊介は小さく返事をする。


「では明日、楽しみにしていますよ。兄さん」


 なんて、妹萌えなオタク共を一瞬にして虜にしてしまいそうなセリフを言い残し、撫子は部屋から出ていった。

 一人残された遊介は少しの間ぼーっと考えてから、一言だけ呟く。


「ま、いっか」

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