第40話 守れなかった


 葵が家のドアを開けると、暗い室内に人がいた。

「きゃっ」

 思わず悲鳴をあげてしまったが、外の廊下の明かりでそれが叔父の伊織であると気づく。

「叔父さん……。どうしたの? 今日はお店いかないの?」

 葵が声を掛けると、キッチンで立ち尽くしていた伊織叔父さんがゆっくりと振り向く。が、葵は叔父が振り向き切る前に異常を察知した。

「あっ」

 床に転がってから、自分が叔父の吐き出した何かを躱していたことに気づく。

「なに?」

 綺麗な前方受け身から立ち上がった葵は、床にこびりついたそれが、細かい糸の束であることを認める。


「何なの?」

 声を上げながら、叔父の第二撃を躱して、玄関から外に逃げ出す。閉まる扉の向こうで、スチール・ドアに突き刺さる糸束の音が響いている。


 が、外廊下に逃れたからといって、安泰というわけではなかった。

 そこには別の人たちがいて、葵の事を待ち構えていたのだ。


 隣の早川さん、何軒か先の石川さんが葵に飛び掛かろうとする。とっさに地に転がった葵は、素早い身のこなしで階段を目指す。が、廊下は近所の人たちで溢れている。そして、その全員が、まるで催眠術にでもかかったみたいに虚ろな眼をしている。


 だめだ、と思った。

 あきらめたくはないけれど、この人の波をすり抜けることは難しい。

「誰か助けて!」

 ダメもとで叫んでみた。

「葵ちゃん!」

 エレベーターの方で誰かが叫ぶ。その声に反応して廊下の人垣が振り向く。


 行ける! いまなら駆け抜けられる。そう確信した葵は、住人たちのわずかな隙間をすり抜けて、声のした方へ走る。

 ゆらゆらと振り返る人垣の向こうで、「葵ちゃん、こっちだ!」と手を上げている赤穂士郎の姿が見えた。


「赤穂くん!」

「はやく、こっちへ」

 士郎が、つかみかかってきたお爺さんを脇に押しのける。

「赤穂くん。みんな何かに操られているみたいで」

 手前の男の人を背中からの体当たりで跳ね飛ばして、葵は士郎のところまで到達。

「早く」

 彼が腕で守ってくれて、階段の方へ逃げようとする。

「赤穂くん、危ない!」

「葵ちゃん!」


 士郎の背後にたった女性がなにかしようとしていた。思わずかばう葵を、逆にかばって士郎がなにか透明な糸みたいなものを喰らう。

「しまった」士郎が叫ぶ。「この人たち、操られているんじゃない……」

 士郎が何かに気づいたようだが、すでに遅い。制服のポケットから何か取り出そうとした腕に白い糸束が絡みつく。

「赤穂くん」

 士郎を守ろうと腕をのばす葵の身体にも、透明な糸が吹き付けられた。

「やめて」


 振り返ると、周囲の人が全員、こちらに向けて口を丸く開き、その奥からしゅるしゅると透明な糸を消火器みたいに吐き出している。たちまちのうちに糸束の中に飲み込まれていく葵は、なにかの甘い香りを吸い込み、そのまま意識を失ってしまった。

「赤穂くん……」

 あたし、大切な人を守れなかった……。


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