第38話 糸


 池波桃李が家に帰ったとき、なぜかドアの鍵がかかっていた。合鍵をランドセルにつけているので、それで鍵をあけて中に入ったのだが、家の中は真っ暗でお母さんの姿はいない。


 もしかしたらこの暗い家の中で、いつもみたいにだまって立っていたら怖いなと思ったのだが、今日はどうやら外出している様子。

 だが、そうなると、どこへ行ったのかちょっと気になる。


 とりあえず電気をつけ、冷蔵庫からサイダーを出し、マンガを読みながら時間をつぶす。ほんとうは勉強しないといけないんだけど、最近はお母さんはまったくうるさくないので、悠々自適な生活を送っているのだ。


 暇なので、ベランダに出て下の公園をのぞいてみる。もし名護屋さんがいたら遊びに行こうかと思ったけど、おかしな髪型の女の人の姿はない。いつもはいるのに。


 しばらくすると、ドアの外をだれかが通った。ゆっくり動く影が摺りガラスごしに映る。

 お母さんかな?と思ったが、その影はうちのドアのまえを通り過ぎていく。が、それに続いて別の影が通る。そして、その影の後にも別の陰。

 なんだ?と思って玄関のドアを開けてみた。


 桃李の家は団地の二階。その廊下を、いろんな人が等間隔で歩いていた。しかもその全員が無表情。ドアから顔を出す桃李のことを見もしない。まるでロボットのように整列して歩いている。ざっざっざっ、というコンクリートを刻む足音が、ぴったり合って不気味に響いている。


「あっ」と思ったら、隣の柴田のおばさんが前を通り、ロボットみたいな動作で自分の家の鍵をあけて中に入っていく。と、同時に桃李のまえにお母さんが立った。

「えっ」

 お母さんは無言で、桃李を押し込むように中に入ってくる。

 力任せに桃李の事をお腹でぐいぐい押し込むお母さんは相変わらず無表情。


「わっ」と叫んで奥に逃げた桃李を、お母さんは無表情で見下ろしている。

「なにすんだよ」

 文句をいっても返事もしない。

 おかしい。何か変だ。

 お母さんはじっと桃李の事を見つめている。が、微動だにしなかったお母さんが、びっくり箱みたいにぱっと両腕をあげた。


「うわっ」

 びっくりして逃げようとした桃李の身体に、しゅるしゅると目に見えないほど細い糸が絡みつく。桃李が動いたため、飛んできた糸は彼の腕と胸に斜めに絡みついた。

「なにこれ」

 驚いて顔をあげると、桃李の身体にしゅるしゅるしゅるしゅると絡みついてくる糸は、なんとお母さんが卵型に開いた口から吐き出されているではないか。口の中から、まるでスプレーみたいに糸が吐き出されている。


 桃李は恐ろしさに悲鳴をあげた。

「助けて! 助けて!」

 大声で叫んだ。だれか助けて!

「どうしたでござるか!」

 意外な声が玄関から響いた。どたどたと足音が響いて、名護屋さんが飛び込んでくる。

「助けて、名護屋さん」

 身体中を糸で縛られて、床に転んだ桃李は半分泣きながら声を上げる。


 名護屋さんが桃李の姿にはっとし、お母さんが名護屋さんを振り返る。その口から白い糸が吐き出された。

 ぱっと身を翻した名護屋さんが、糸をなんとか躱すが、その背後に、隣の柴田さんがぬっと姿を現す。

「危ない、名護屋さん!」

 桃李が叫んだが、間に合わなかった。名護屋さんの背後から襲い掛かった柴田のおばさんが、名護屋さんに糸を吹きかけた。


「ぎゃー、気持ち悪い。やめろー」

 下品な声をあげて名護屋さんが糸に巻かれる。

「名護屋さん!」

 必死に声を上げる桃李の顔に、お母さんの吐き出す糸がかぶさってきた。なにか甘い匂いがして、強烈に眠くなる。

「名護屋さん、助けて……」

 桃李は叫ぼうとするが、その声はすでに囁きだった。彼はそのまま、眠気に負けて意識を失ってしまった。


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