第17話 西江水


 翌日の朝も士郎は性懲りもなく、朝練に行った。きのうと同じようにキナ子がおり、杏さんが出て来た。きのうは怒って消えてしまったくせに、今日はもうケロっとして出てくる。が、キナ子とのケンカは継続中らしくて、士郎のところにやってきて、今回は本当に素振りをやらされた。木刀はきのう失くしてしまったので、部室の袋撓ふくろしないをつかったのだが、もう息が切れるくらいえんえんやらされる。

 そのあとで、新陰流の型稽古。士郎が杏さんに「新陰流、知ってるんですか?」とたずねると、「三学なんて、その辺の新陰の先生よりうまいよ」とうそぶく。

 三学とは最初の五本目までのことを言う。

 まあ、なんにしろ士郎は新陰流の一本目しか知らない。たしかに一本目くらいは杏さんにしてみれば朝飯前だろう。と軽い気持ちでお願いした。

 そして、しばらくしたら、こんなことを言われた。

「士郎、あんたさぁ」すでに杏さんは士郎のことを士郎呼ばわりである。「新陰流の極意って知ってる?」

「知るわけないじゃないですか。まだ一本目しか習ってないんですから」

 杏さんが袋撓で打ってくる。士郎は足を踏みかえ、柄中を切って勝つ。雑談は型稽古をしながらである。

西江水せいこうずいっていってさ」杏さんは八双に撓を引き取りながら大きく後ろへ下がる。一歩でもの凄く下がる。「西江の水を一気に飲み干すって意味なんだけど、これたぶん一本目の事だよ」

「なんすか、たぶんって」拳に詰め勝ちながら、士郎は吹き出す。そして残心といって、その状態でちょっと待つ。さっき、残心をちゃんと取らなかったら、杏さんに思いっきり頭を撓でぶっ叩かれたので、きちんと残心する。人の頭を思いっきりぶっ叩いた杏さんは、けらけら笑いながら、「いやー、袋撓は楽しい」と士郎のことを何度も叩いた。

「日本の武術は、一本目で極意を教える。だから、新陰流の極意『西江水』はたぶん一本目の『一刀両断』のことだよ」

「なんか適当だなー」

 何度も一本目ばかりやっていて、どうやら杏さんは飽きてきたらしい。

 士郎が合し撃ちを入れるべきところで、ふいに身を開いて士郎の撓をすり抜け、彼の手首に一刀入れてきた。

 身を開くというと、横に動くことを想像するが、このときの杏さんは立ち位置を変えず、ただ正対した躰から完全なる単身に切りかえただけだった。躰を変えただけですり抜けて、士郎の小手を、袋撓のあまり割れていない固いところで捉える。ひょいと手首を押さえて、そのまますっと切り降ろした。

「わっ」

 士郎は声をあげた。杏さんは大して力を加えたわけではないが、士郎の体は崩れ、膝が折れる。腰が落ち、そのまま抵抗できない謎の力によって、膝をつかされ、床に手をつき、とうとう這いつくばらされてしまった。

「な、なんすか、これ」

 驚いて士郎は、けらけら笑っている杏さんを見上げる。

「太刀筋。言ったじゃん、刀で切っていく角度じゃないって。太刀の道のこと」

「ああ、角度じゃないって、そういう意味が」士郎は得心した。「太刀の道は、たしか『五輪書ごりんのしょ』で武蔵が言っている……」

「あら」杏さんはしゃがみ込んで士郎を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべた。「五輪書を読んでるんだ」

「あ、いや、一応、おれムサシなんで……」

「……二刀流を習いたいか?」

 低くたずねられた。

 士郎はごくりと唾を呑み込む。

「──はい」

 杏さんはにっこりと笑って立ち上がった。

「よろしい。師匠を探しておくよ」

 そういって、魔法のようにその場から姿をかき消す。床に、ぽとりと袋撓が落ちた。




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