第18話 非常識

「婚約者がいる女性が髪を短くするという事は『相手の事が気に入らないので修道院へ行きます』というアピールなのだよ。親に逆らえない人の最終手段でね」

「ごめんなさい。そんなつもりはなくて」

 リリアーナはただ髪が邪魔だったと素直に謝った。


「……良かった。嫌われたのかと、」

「えぇっ? ノア先生を嫌うなんてアリエナイよ」

 ワタワタと慌てるリリアーナにノアールはホッと胸を撫でおろした。


「リリーの学園、超不安だけど!」

 お兄様の言葉の方が不安です!


「学園に行くまでにリリアーナに一般常識を教える必要があるね」

「え? 一般常識?」

 私には常識がないということ?

 ウィンチェスタ侯爵まで真面目な顔で言うので、リリアーナはガックリと項垂れるしかなかった。

 

 

『身分が上の人、年齢が上の人には許可があるまで話しかけてはいけない』

 国王陛下に自分から名乗りました。

 マナー違反!


『身分が上の人、年齢が上の人より先に飲食をしてはいけない』

 国王陛下より先にお菓子食べました。

 マナー違反!


 ひぇぇぇ。

 常識がない!

 自分はもっと常識があると思っていた。


 衝撃の事実。

 リリアーナは一般常識を教わりながら頭を抱えた。

 冷や汗ダラダラだ。


 学園では上級生に自分から話しかけてはいけない。

 名前を聞かれたら答え、相手も教えてくれたら次回から挨拶が可能。

 名前を聞かれても相手が教えてくれない事はよくあるそうだ。

 とにかくお辞儀をして先に通ってもらう。

 

 フォード家は侯爵なので公爵家にはリリアーナから話しかけてはいけない。

 リリアーナの同級生に公爵家はいないので、リリアーナから話しかけてはいけないのはただ1人、王子だけだ。

 良かった、わかりやすい。

 王子に近づかなければ良いのだ。


 逆に、伯爵家、男爵家、平民からリリアーナに話しかける事はできない。

 侯爵家から話しかけられても対等なので返事をしなくても良い。

 名前を聞かれたからうっかり答えた。なんて失敗をしないようにと釘を刺された。


 難しい、貴族。


 普通は子供の頃から母親に連れられてお茶会に参加するため、子供ながらに上下関係が染みついているらしい。

 引きこもりだったリリアーナには不利だ。

 社交的な性格でもない。

 早くも、ぼっち確定か。


「……ムリ」

 リリアーナはパタンとテーブルに突っ伏した。


「少しずつ慣れるよ」

 エドワードは子供の頃から父の社交場について行っていたため初等科に通うときにはクラスにすでに友達がいたそうだ。

 お兄様はずるい。


「学園でお兄様やノア先生に話しかけるのは?」

 リリアーナはテーブルに左の頬をつけたまま質問した。


「もちろん良いですよ」

 良かった。

 ダメと言われたら、学園内では誰とも口がきけないと思った。


「はぁ」

 学園は楽しみだが、貴族の人付き合いは面倒そうだ。


 想像以上に落ち込んでしまったリリアーナをエドワードとノアールは心配そうに眺めた。


「外で素振りしてくるよ」

 何度目かの溜息に耐えられなくなったエドワードが急に立ち上がった。

 

 さっきもしてましたよね、お兄様。

 パタンと扉が閉まる音がする。


「リリー、少しずつ覚えれば大丈夫ですよ」

 ノアールが頭を撫でてくれる。

 その手は優しくて温かい。


 不意に、自分の微妙なウェーブの黒髪が目に入った。


 やっぱりヘアゴム欲しいな。

 どこかで売っていないかな。


 100円均一の2本セットで売っている茶色の普通のやつ。

 あぁそういえばバイト先で急に使う事があってなんとなく毎日つけていたなぁ。

 ないのかな? この世界に。


 右手がほんのり熱い。

 あぁ、なんだか涙も出てきた。

 前世が懐かしいから?


「リリー? どうして泣いて……」

 ノアールの焦る声が聞こえる。


 あぁ、やっぱり私、泣いているんだ。

 涙で視界が滲んでいる。

 目を閉じると頬を伝ってテーブルに涙が落ちた。


 右手が熱い。

 目も熱い。

 ノアールからもらった指輪が熱くて痛い。

 リリアーナはそっと指輪を外して握りしめた。


「リリー?」

 ノア先生が呼んでいる。

 リリアーナはなぜか自分が遠くにいる様な感覚がした。


「リリー!」

「お嬢様!」

 ノアールが必死に呼びかけてもリリアーナには反応がない。


「リリー! しっかりしてください、リリー!」

 ノアールは何かを握っているリリアーナの右手にそっと触れた。


「……魔力不足?」

 指先が凍えるように冷たい。

 ノアールは椅子から落ちそうなリリアーナを抱え、ベッドへ運んだ。


 もう一度手を触ってみるがやはり両手は冷たかった。

 握っている手を開くと、リリアーナの指輪と見知らぬ輪っかが2個。


 この茶色の輪は何だろうか?

 リリアーナはいつ指輪を外したのだろうか?

 

 ノアールはベッド横のテーブルに指輪と茶色の輪を置いた。

 両手を上から握って暖めるが、手は凍えそうなほど冷たく指先はだいぶ白い。


「ノア先生! リリーは?」

「……魔力不足かもしれません」

「リリーは今日魔術使っていないよ?」

 エドワードはベッド脇まで歩き、意識がないリリアーナの手をそっと触れる。


「冷たっ! え? 何で?」

 困惑したエドワードとノアールは原因不明の魔力不足に顔を見合わせることしかできなかった。


「魔力不足ねぇ。理由はわからないのかい?」

 ウィンチェスタ侯爵はリリアーナの寝顔を覗き込みながらノアールへ尋ねた。

 ノアールは首を横に振る。


「指輪は? いつもつけているのだろう?」

 リリアーナの手には指輪がない。

 ノアールがベッド横のテーブルに目を向けると、ウィンチェスタ侯爵は茶色の輪を手に取った。


「これは何かな?」

「リリーが倒れたときに握っていたものです」

 ノアールも、もう1つの茶色の輪を手に取った。


「指輪とこれを握っていました」

 手の上に乗せ、リリアーナのように右手で握る。


 ふむ。とウィンチェスタ侯爵が茶色の輪を見つめた。

 少し伸びるが離すと戻る。

 不思議な感触だ。


「指輪は外していたのだね?」

「はい。いつの間にか外して握っていたようです」

 マナーの話をしている時、テーブルの上に乗っていたリリアーナの手には指輪があった気がする。

 外したのはリリアーナがテーブルに突っ伏した後だ。


「これは何だろうね?」

 ウィンチェスタ侯爵は茶色の輪をテーブルに戻しながら首を傾げた。


 

 リリアーナが目を覚ましたのは翌朝だった。

 

 全身が重くて指1本動かせない。

 初めて火を出した日のような倦怠感だ。


 ベッドに突っ伏して眠っているノアール。

 まつ毛が長い。

 ピチピチの肌。

 もうすぐ20歳だというのにズルいと思う。

 眼鏡を取ったらアイドルやモデルよりも絶対にキレイだ。

 お姉様方が騒ぐのもわかる。


 どうしてこうなっているのだっけ?

 年上に挨拶はダメで、名前も気軽に教えてはダメで。

 それで。

 指輪が熱くて痛くて外して。


「……指輪! 無くしていないよね?」

 多分今は指についていない。

 動かせないから見えないけれど。

 落としていたらどうしよう。

 わずかにリリアーナの指先が動き、ノアールの手に振動を伝えた。


「……ん、」

 眼鏡の奥の眼が僅かに動く。

 緑の眼がゆっくり開き、綺麗な緑の髪がさらりと動いた。

 ノアールは眼鏡を外し、ベッドの上に置く。

 目頭を抑え、目を数回擦ると、そのまま前髪をかき上げた。


 ダメです、ノア先生!

 その色気は反則です!

 リリアーナはいけないものを見てしまったかのような気分に狩られる。


「……リリー?」

 繋いだ手がぎゅっと握られる。

 すぐにノアールは眼鏡を掛け直した。


 あ、残念。

 眼鏡なしのノア先生をもっと見たかった。

 

「気分は?」

「えっと、大丈夫です? 身体が動かないけれど」

 リリアーナが答えると、ノアールは大きく息を吐いた。


「魔力不足だそうですよ」

「魔術は使っていないのに?」

 午前は侍女のミナからシーツの交換方法や服が汚れたときの洗濯方法を教わった。

 午後からは学園のルール。


 そして倒れたのだ。


 ノアールはテーブルの上の指輪を手に取り、リリアーナの右手にはめた。

 そのままリリアーナの手を持ち上げ、指先に口づけする。


「あまり心配させないでください」

 切実な声と共に溜息が聞こえる。


「ごめんなさい」

「あと、これを握っていました」

 ノアールはテーブルの上の茶色の輪を2個見せた。


 リリアーナの目が見開く。

 見慣れた茶色のヘアゴム。

 普通によく売っている飾りのない輪だ。


 ノアールは茶色の輪をリリアーナの右手に握らせた。

 感触も太さもやっぱり普通のゴム!


「ミナが用意してくれたの?」

「リリーが握っていたのですよ?」

 言われている意味がよくわからない。

 記憶は曖昧だが、ミナが買って来てくれて受け取って握ったまま何かがあって倒れたということだろうか?


「これが何かわかりますか?」

 ノアールが変なことを聞いてくる。

 男性だから知らないのだろうか。

 それとも常識がないと思われているので「リリアーナは知らないでしょう?」という事なのだろうか。


「ヘアゴムでしょう? そのくらいわかりますよ」

 口を尖らせながらリリアーナが答えると、今度はノアールが驚いた顔をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る